第二次世界大戦中まで、日本の委任統治領だったマーシャル諸島には、今も日本語由来の言葉が残っていたり、日本軍が残したインフラを使った伝統工芸品があったりします。
そんなマーシャル諸島に残っているのは実は言葉や伝統工芸品だけではありません。
当時現地で戦った、日本兵の遺骨の数多くがまだ回収されずに眠っており、その遺族の方々はいまだに亡くなった家族と対面できていません。
今回の主人公、宮城県亘理郡に住む佐藤勉さん(1941年生まれ)もそのひとり。
ですが、佐藤さんは今年、マーシャル諸島を訪れ、父が没した場所で慰霊祭を執り行うことになりました。
そして、そのきっかけになったのは昨年70seedsで掲載した連載『「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて』だったのです。
関連記事:
【連載第1回】「一通の手紙」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて
【連載第2回】「ミレー島」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて―
【連載第3回】「チュウタロウ ファミリー」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて
【連載第4回】「手紙の主」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて
【連載第5回】「タカイワの唄」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて
父の日記が生きる支えになった
(写真:床の間のマーシャルコーナー)
佐藤さんの父、佐藤富五郎さんは旧日本軍の一等兵曹。昭和20年4月26日、マーシャル諸島のウォッゼ島で亡くなりました。
米軍の攻撃によって部隊が壊滅、孤立していった富五郎さんが過ごした日々のことは、死の前日まで書き続けていた日記を通じて、息子の勉さんに伝わることになります。
日記は、「之ガ遺書」と書かれた文章で締めくくられていました。その最後の、家族に宛てたメッセージを紹介します。
コレヨリ家庭覧ニシテ有リ
マスカラヨク読ンデ下サイ
孝子、信子、勉、赤チャンモ。父親ニ儘ス
親孝行ハ皆ンナデ母親ニ孝行ヲ
シテ下サイ。父ノ分マデモ
ソシテ家族仲良ク 兄、弟、姉妹、
仲良ククラシテ下サイ。
父ナキオマイタチモ何ニカ不自由
デセウガ イタシ方ナシ 之モオ国ノ
タメダ。 元気デホガラカニ
オイシイモノデモタベテクラシテ
下サイ
~中略~
僕ナキ後ノ暮シハ
東京に居ルカ、舎田(※田舎)ニ引キ上ゲ
ルカ 引キ上ゲテモシ方アルマイ
暮ラセタラ東京ニスルカ 最モ
暮ラスニ良イ道ヲエラビ
ナサイヨ。 二十年四月二十一日書く
後七日で〇二年(※丸二年)ダネ 過テ見レバ早イモノ
戦況モ次第ニ良クナッテ来テ居ルノニ
無念。 僕ハ反対ニ沈ンデ行ク
セメテ カドヤの天丼デモタベタイ
クサレタタクアンデモ良ロシイ
勉さんがこの日記を読んだのは、中学生のときでした。
切々と綴られた戦地の暮らし、そしてその中でも自分のことを思い続けてくれていた父の姿に、途中で泣き崩れてしまったそうです。
戦後の苦しい生活の中、くじけそうになったとき、道を踏み外してしまいそうになったとき、必ず父の日記を何度も何度も見返すことで、まっすぐに生きてくることができたと言います。
しかし、勉さんには長年悩んでいることがありました。
それは、日記が昔の言葉で書かれている部分も多く、解読できない箇所があったこと。
その解読のためには専門家の力が必要だと思った勉さんは、働いていた会社を辞めてタクシードライバーに転職します。
そして地元でもっとも専門家に会えそうな東北大学の周りで大学の先生を乗せることで、協力してくれそうな人を探すことにしたのです。
もちろん、一筋縄ではいきません。大学の窓口を紹介してもらうも無下に断られてしまったりなど、その試みは苦労の連続でした。
そんな中、幸運にも巡り合ったのが、仁平義明先生でした。
勉さんから話を聞いた仁平先生はすぐに快諾、日記の解読を進め、白鴎大学の論文集として発表をするに至りました。
この経緯について、「15もの偶然が重ならないと起こりえなかった奇跡」だと、仁平先生は語ってくれました。
(写真:政府主催慰霊祭ツアー募集記事)
解読された日記を手にしたことで、勉さんのウォッゼ島への想いはさらに高まることになります。
いつか父の日記に書いてある場所で一日思いっきり過ごしたい、そう願った勉さんは元在マーシャル日本国大使館安細大使に相談、協力を得られることになりました。
そんな中、冒頭に挙げた70seedsの連載エッセイと出会うことになるのです。
ついに降り立った父の遺骨が眠る島
70seedsのエッセイで現地のストーリーに触れた勉さんは、マーシャル諸島滞在経験のある編集部の大川へ連絡を取り、エッセイの作者である森山さんとつながります。
後日森山さんから届いた300枚の写真に心踊らされた勉さん、「必ず現地に行くんだ!」という思いは一層強いものとなりました。
そして2016年4月。大川、森山さんとともに、勉さんはついに4度目となるウォッゼ島の土を踏むことになりました。
到着してからも奇跡は続きます。
父が亡くなった場所がわからなかった勉さん、現地の人に警備隊の防空壕の場所を偶然聞くことができ、念願の慰霊祭を行うことができました。
そして富五郎さんが亡くなったエニヤ島、そして日記を送ってくれた原田さんの島に、現地の人の取り計らいで、突然ボートで行けることになったのです。
エニヤ島に降り立ったとき、勉さんは「日記にあった島だ!お父さん、お父さん!今来ましたよ!」と、喜びを嚙み締めました。
(写真:マーシャルコーナーの時計と貝の地図)
勉さんはその後すぐに、日本政府に遺骨収集をしてほしいと要請書を書きました。
まだ返信は来ていないけれども、もしダメだったとしてもいずれはウォッゼ島に滞在して、現地の人とともに父の遺骨を収集したいと語ります。
「終戦当時、日本政府から来たのは父の髪の毛と爪だけ。それに母は怒っていた。(故郷の)亘理にはなにもないんです。だから、父の遺骨を探すのは自分に残されたやるべきこと。それが母を助けることにもつながると思っています。」
中学生のときから、さらに言うならば、富五郎さんがマーシャル諸島で戦っていたそのときから続く勉さんの「使命」は今もなお、続いているのです。