「人生100年時代」と言われている現代社会。健やかに生き抜く自信はあるだろうか。見えない未来に心を配っては、生きづらさに心を支配されてしまうことはないだろうか。

人生における自分の力ではどうしようもない壁にぶつかったとき。幸せとは何かを見失ったとき。自分だけの光を見つけることは、ときに難しいもの。

今回お話を伺ったのは、陸上・自転車競技のパラリンピックメダリストであり、今もなお現役のブラインドサッカー選手である葭原滋男さん。

突然背負うことになってしまった「障がい」を受け入れらない時期を乗り越えた葭原さんの、「視覚障がいがあってもなくても変わらない人生を楽しむ生き方」はどのようにして生まれたのか。

貝津美里
人の想いを聴くのが大好物なライター。生き方/働き方をテーマに執筆します。出会う人に夢を聴きながら、世界一周の取材旅をするのが夢です。

人生を楽しむ「新しい障がい者像」をつくりたかった

目の病気がわかったのは、葭原さんが10歳のとき。すぐに日常生活に支障をきたすわけではなかったため、しばらくは以前と同じ生活を送っていた。障がい者手帳を持つようになったのは、22歳。ちょうど社会人1年目のときだった。

「病気だし、しょうがないのかな……。そういう諦めの気持ちが大きかったです」

会社員として昼夜を問わず激務をこなしていたことで、視力が一気に落ちてしまったのだ。心配した家族からは「目も悪いんだし、そんなに頑張る必要はない」と諭され、半ば説得される形で障がい者手帳を手にした。

幼い頃から外で元気に遊びまわっていた活発な青年の心を、ぶ厚い雲が覆う。未来に抱く「光」は一瞬にして奪われてしまった。

「『障がい者』として生きる現実を受け入れられませんでした。僕自身、障がい者に偏見を持っていたんですよね。人に助けてもらわないと生きていけない可哀そうな存在だと思っていましたから」

障がい者手帳を持った自分は、「可哀そうな存在」として生きていかなければならないのか。受け入れたくない現実に打ちひしがれそうになりながらも、「そうはなりたくない! 」と強い思いがあったという。葛藤の末、葭原さんが選んだ生き方は、自分が持っていた偏見をひっくり返すものだった。

「『それなら、俺が新しい障がい者像をつくってやる!』と奮起したんです。今までどおりの楽しい生活を続けるには、それしかないと。以降、障がいに関係なくやりたいことには積極的にチャレンジする生活を意識するようになりました。

障がい者として生きることを受け入れる。それは、「可哀想な障がい者」から「人生を楽しむ障がい者」へと、生き方を自らの手で切り拓いていく挑戦そのものだった。社会や他人に障がい者のあり方を決めさせない。

 

このとき、葭原さんの「自分らしい人生」の幕が開けた。その熱い想いは、渦を巻くように周りをどんどん巻き込んでいった。

「会社を退職し、通っていた国立身体障害者リハビリテーションセンター(現:国立障害者リハビ テーションセンター)で出会った友達と『障がい者の世界に革命を起こす』意味を込めてチームRBB(Revolutionary of Blind Brothers)というグループを結成しました。

友達と学校の廊下をスケボーで走ったり、毎晩のように飲み歩いたり(笑)。『お前ら障がい者なんだから! 』って注意されるようなことをあえてやってました。スキーやキャンプに出かけるのも楽しかったです」

自分自身がイメージしていた「可哀そうな障がい者像」とはかけ離れた楽しい生活を仲間と送る葭原さん。その姿を見ていると、「やりたいことをやる」とは、何も立派なことじゃないくていいのだと気づかされる。

知らぬ間に背負ってしまっている社会や他人からの期待や視線に縛られず、自分が心地いいと感じる生き方を選択する姿にはっとさせられた。

 

そんな葭原さんの人生をさらに飛躍へと導いた「スポーツ」との出会いは、ひょんなことだった。

「スポーツとの出会いは、学校卒業が間近に迫った頃。学校で「全国障がい者スポーツ大会」の参加申し込み締め切りが今日までと校内放送が流れたんです。沖縄開催の大会だと耳にした僕は『沖縄に行きたい!』と、すぐさま申し込み用紙を握りしめて体育の先生のもとへ駆けつけました。

『おまえ、出場種目は?』」と聞かれたのですが、当時スポーツをやっていたわけでもなくただ沖縄へ行きたい気持ちだけで申し込んだので『逆に何がありますか? 』と聞き返すありさま(笑)。結果的に先生にいろいろな種目を見てもらって、一番良さそうな高飛びを出場種目にしました」

もし大会の開催場所が沖縄でなかったら……?と問うと、「スポーツと出会うことなく今の自分もいなかったかもしれない」と語る葭原さん。好奇心のままにエントリーした沖縄大会では、初出場ながら見事銀メダルを獲得したものの、心に残ったのはマグマのようにグツグツと煮えたぎる悔しさだった。

「優勝した選手の記録は、練習では難なく飛べていた高さだったんです。もし金メダルを獲れていれば、翌年のソウルパラリンピック出場の可能性もあったと知り、心底悔しかったですね。

もしあっさり金メダルを獲得していたら、単なる思い出づくりに終わってアスリートの道には進んでいなかったかもしれません。悔しい気持ちがバネになり、『次は自分のベストを出してやろう!』と、4年後のパラリンピック出場を目指すきっかけになりました。負けた経験をしたからこそ、未来の自分へとつながった。そういう意味では、人生のターニングポイントでしたね」

 

人生の壁を超え、ついにメダリストに! 実現の鍵は「仲間集め」だった

負けず嫌いに火がつき、4年後のパラリンピック出場を誓った葭原さん。とはいえ、学校卒業後は公務員として就職したため、仕事を終えた夜から練習を開始する日々。さらに、当時はコーチもおらず、独学で練習に励んでいた。

「まずは4年後のパラリンピック出場のための計画をたてました。いつまでに、どのようなスキルが必要かをひとつひとつ洗い出し、課題を潰すようにトレーニングメニューを組んでいきました。4年では時間が足りないと思うほど、あっという間でしたね」

そして4年後の1992年。有言実行、バルセロナパラリンピックへの出場を果たすと同時に、怒涛の競技人生が幕を開けた。96年のアトランタでは高飛びで銅メダルを獲得。なんと、94年に更新した日本記録は今もなお破られていないという。

 

その後は、縁あって自転車競技の実業団に入り、陸上競技から自転車競技へ転向。専門的なコーチの指導者のもとでみっちりトレーニングを積み、2000年に出場したシドニーでは世界新記録を樹立。悲願だった金メダルを獲得した。

「苦しい練習を耐え抜いて得た世界一の称号は、本当に嬉しかったです。金メダルを持ってお世話になった人へ駆け寄ったときは、涙が止まらなかったですね……」

当時をしみじみと振り返った葭原さん。並大抵の努力では叶わなかったであろう日本記録や世界記録の樹立と、パラリンピックで獲得したメダルの数々。世界トッププレーヤーに昇りつめるまで、心が折れそうになることはなかったのだろうか。

「練習は本当にきつかったです。仕事を終えるとクタクタで、『今日は練習行きたくないな〜』と思う日もあるんですよ。自分を奮い立たせるために工夫したことは、練習場所で仲間をつくること。障害者スポーツセンターの職員の方に紹介してもらったり、競技場で選手を見かけたら自ら話しかけに行きました。

仲間と一緒に練習をする約束をしていれば、どんなに仕事で疲れていても、グラウンドに行かざるを得ない。自分を追い込むために『ひとりではない』練習環境をつくっていました」

結果を出すための環境づくりにも余念がない。実は人見知りだと話すも、成果を出すためには苦手も克服する心意気で乗り切ったというから、さすがだ。

 

2004年にはアテネパラリンピックで銀メダルを獲得し、そこで自転車競技に区切りをつけた。そして新たな挑戦として始めたのが、ブラインドサッカーだった。

一体なぜ、数々の記録を打ち立てた個人競技(陸上競技・自転車競技)を離れ、チームスポーツへの転向を決めたのだろうか。

「ちょうど40歳を過ぎた頃でした。まだまだ世界レベルで競技を続けたい気持ちはあるものの、もう年齢的に自分ひとりの力では厳しいと思ったからです」

トップを目指す執着はブランドサッカーにも及ぶ。2007年~2011年は日本代表でプレーをし、現在はブラインドサッカーチーム『乃木坂ナイツ』で監督兼選手として日本リーグに出場している。

実現させたい社会を体現した「ブラインドサッカーチーム」

学生時代から競技生活まで、何かにチャレンジするときは必ずと言っていいほど「仲間集め」をしている葭原さん。意識していることがあるのだろうか。

「やはり、ひとりで成し遂げるのは大変ですよね。『仲間集め』は、僕にとってやりたいことを続けるために必要なことのひとつなんだと思います。もっと言うと、僕自身が楽しそうにしているから『なんかおもしろそうだな』と感じた人が集まってきてくれるのかも。『どうしたら周囲の人に楽しんでもらえるか』を常に考えています」

自身が楽しむ姿勢と、仲間への配慮。両方がうまく噛み合わさって好循環を生み、葭原さんの周りには常に人が集まってくるのかもしれない。ブラインドサッカーチーム『乃木坂ナイツ』の風土づくりで意識していることを伺った。

「乃木坂ナイツは、健常者と障がい者が共生する社会を実現させるために、いろいろなことが試せるチームです。今の社会の構造って、健常者が指揮をとり、障がい者がついていく形が多いかなと。

 

でも乃木坂ナイツは逆なんですね。チームの2/3は健常者なんですが、僕が監督としてトップに立ち、健常者も障がい者も混ざったチームをまとめている。他の場面でもそうなると社会ってどうなるのかなって。まさに、実験です」

実現させたい社会を思い描きながらチームづくりをしてきたという葭原さん。現在持つ答えは、どんなものなのだろうか。

「障がいの有無は関係ないと実感しています。チームには、精神障害のメンバーが在籍することもありました。一時は引きこもって外出もままならない状態だった子も、『ここは居心地がいい』と毎週練習に参加してくれるようになって。症状も徐々に回復し、今では仕事も見つかって社会復帰もしています。

 

彼らの姿を見ていると、チーム環境が社会にも汎用できれば、誰もが心地良く生きられる社会が実現できるのではないかと、可能性を感じながら活動しています」

「例えば、不登校や引きこもり、ストレスで会社に行けないなどの状態に陥ってしまった人って、その人自身が悪いわけではなく社会がそうさせてしまった可能性が高いのではないか思うんです。

 

『得意なところは出し合い、苦手なことはフォローをしあう』風土づくりがあれば、実現できる。たとえば目が悪い僕には精神的なサポート、という得意なことがあります。誰かの苦手な部分は、得意な誰かが自然とサポートをする。弱さをお互いにフォローし合える社会が実現できれば、ひとりひとりがより自然体で生きられると思うんです

困難な壁や人間関係をおもしろがるコツは「クイズ」に例えて楽しむこと

現状を真摯に受け止め、その上で解決策を探っていく。「人」ではなく「環境」に目を向け、生きづらさを解きほぐす社会の仕組みを変えていこうと目を輝かせる葭原さん。なぜそんなにも前向きになれるのか。

「僕は物事を『クイズ』のように捉える癖があって。小さい頃から算数が好きだったからですかね。難しいことや、できないことがあると『どうしたらできるようになるだろう?』と答えを見つけていくのが楽しいんです。

 

それは人間関係も同じ。自分とは全く異なる考えを持つ人がいたら『この人はおもしろいクイズだなぁ。答えはこれかい?』と、謎解きのように楽しんでます。人間関係は深刻に考えるのではなく、違いを楽しむもの。もっと気楽に捉えて良いと思うんです」

他人との違いを楽しむ軽やかな考え方は、葭原さんの気さくな笑顔とリンクする。しかし、関係構築が上手くできず生きづらさを抱えている人ほど「自分が悪いのでは……」と自己否定をしてしまうような気がする。

「自分を出さないと相手も心を開いてくれないんじゃないかな。それに、お互いに自分の意見を言い合うからこそ、人間関係はおもしろくなると思ってます。相手の考えを知って理解することは、クイズの答え合わせをするようなもの。喧嘩をしても、最後に答えを確認しあえれば良いんです」

困難を楽しく乗り越えるコツのひとつには、目の前の課題をクイズに例えてみること。答えを探したり、答え合わせをしたり。謎を解けたときの嬉しさや発見が、新たな好奇心を生み、葭原さんにとって新たなチャレンジへのモチベーションになっているように感じた。

「目の前のことに挑戦していくこと自体がモチベーションというか。将来のことはわからないですもんね。理想を描いても全然違う方向にいくこともあるだろうし、それが間違いとも言えない。

『幸せって何かな?』と考えるときに見るのは、将来じゃない。今が幸せなら、幸せなんです。だからこそ、自分がより心地良く楽しいと思える日々を、ひとつずつ積み重ねるしかないのだと思います。

僕の場合は、難しいクイズであればあるほど燃えるタイプで(笑)。障がいがあって躊躇してしまうようなことにも、難解なクイズを解く感覚で『やってみなければわからない! 』と、チャレンジする。

まだまだやってみたいことがたくさんあるんですよ。2020年東京パラリンピック出場もそのひとつ。出られないと決まったわけではないので、チャンスがあればどの種目でも挑戦したい。これもまた難解なクイズで、燃えますね(笑)」

人生における困難や、自分とは異なる他人の考えをクイズに例え、謎解きと答えわせをひとつひとつ積み重ねること。幸せとは、今日を幸せに生きること。日々を生きやすくなるヒントがぎゅっと詰まった葭原さんの人生観に筆者も心が救われる体験をした。

相手の正解を認めるフラットな人間関係は、誰にとっても心地がいいはず。どうして葭原さんには多くの人が惹かれるのか……そんな、やさしいクイズの答えが解けたインタビューだった。