自分は社会の中でどのランクにいるのか考えたことがない、という人は一体どれほど存在するだろうか。

学校の勉強からスポーツや文化活動まで、私たちが暮らすこの世の中にはいたるところに誰かと比較するための「ものさし」が用意されている。

その中でも、こと日本において隅々まで根を張っているものさしの最たる例が「学歴」そして「偏差値」だ。

出身校や偏差値は、その人の働く場所、経済環境、さらには子どもの人生までも左右する重大な要素となっていること、そしてその現実が暗黙の了解となっていることは、最近話題になった「親ガチャ」という言葉にも滲んでいる。

そんな現状に一石を投じるのが、「project:ZENKAI」と銘打たれたプロジェクト。

このプロジェクトを発表したのは、日本最大級の企業であるトヨタ自動車と、設立2年目の一般社団法人HASSYADAI socialという異色のタッグだ。両者をつないだのは、「多様な人が活躍できる社会を実現したい」という思い。

次の70年に「学歴」や「偏差値」は必要なのか。それらに代わるものさしの可能性について、異例づくしの本プロジェクトの起案者であるHASSYADAI social理事の三浦宗一郎さんに聞いた。

岡山 史興
70Seeds編集長。「できごとのじぶんごと化」をミッションに、世の中のさまざまな「編集」に取り組んでいます。

「偏差値だけ」「学歴だけ」ではない可能性を社会に

「偏差値によって自分に自信を持てなくなってしまっている人がたくさんいるんじゃないかと思うんです。ぼく自身がそうでした」

これは、今回のインタビューで印象的だった言葉のひとつだ。

project:ZENKAI第1弾の活動となるのが、現在の日本で一般的な評価軸である「偏差値」「学歴」だけにとらわれずに、その人らしい才能や可能性を開いていく15〜18歳の子どもたち100人を対象にした3ヶ月間の教育プログラム。

参加者たちはプログラムに登場する各分野で活躍する大人(メンター)や少し上の世代のスタッフ、そして同世代の参加者たちとの出会いを通じて、自分のなかにある「やりたいこと」「熱中できるもの」「わくわくすること」を見つけ出し、社会につなげていく方法を考え、実践していく。

特徴的なのはメンターと参加者の関係性が「教える→教えられる」という一方的なものではなく、あくまでも参加者ひとりひとりの中から生まれたものを出発点に、タテヨコナナメの関係で可能性を形にしていく「対話」のプログラムであるということ。

「子どもたちにとっては、普段接している先生や親だけではない、多様な大人と関わる機会をつくることが必要なんです。今の社会で居場所をつくるためには、引かれたラインに自分を合わせることが当たり前だとされていますが、そうじゃなくてもいいんじゃないか。自分の中にあるもので誰かを喜ばせたり、社会に役立つ方法を見つけていこうよ、と」

現在、メンターには「非大卒の上場企業社長」や「イジメにあった経験を持つアーティスト」など、学歴や偏差値にとらわれない生き方のモデルになるユニークな大人たちが名を連ねている。

 

社会の基準が権利をうばう

三浦さんが理事を務めるHASSYADAI socialは「全ての若者が、自分の人生を自分で選択できる社会を実現する」というビジョンのもと、中高生に向けたキャリア教育に取り組む団体だ。

厚生労働省の統計によれば、中学卒と大学卒の正社員雇用率には2倍以上の開きがあることが報告されているが、これは生活水準や子育て環境といった「その後の人生」における格差を再生産する。学歴や偏差値はそれ自体が「選択格差=自分で人生を選択できないこと」のきっかけであり結果でもあるのだ。

HASSYADAI socialの活動は、三浦さん自身が「選択格差」を実感してきたからこそ生まれたもの。家計のために高校ではなく職業能力開発校に進学したことで、教師になる夢を諦めざるをえなかったとき、「社会の基準」がいかに挑戦を阻むものであるかを知った。

「社会に自分の居場所をつくりたくても、学歴や偏差値といった基準によってやりたいことに挑戦する権利さえ持つことができなかった。追うことさえ許されない基準をもとに判断される、低く見られるなんてあまりにも不条理じゃないですか」

三浦さんの周囲には、高校卒業後そのまま働く道に進んだ友人や先輩がたくさんいる。さらに、社団法人立ち上げ後には同じような環境にいる若い世代と関わることも増えた。彼らと接している中で三浦さんは「選択格差」への問題意識をより強く持つようになった。

「彼らには、それぞれの強みや光るもの、すごいところがたくさんある。でも“中卒だから”“勉強ができないから”という理由で可能性を決めつけられているんです。学歴や偏差値だけで人生や可能性が制限されてしまう、さらには貧困の再生産につながっていくことがいいことなのか。特にこれからの時代、人間ってそれ(学歴や偏差値)だけじゃないよね、って」

 

「そのままの自分」が誰かの価値になる

学歴や偏差値に判断され、傷ついてきた人たちが可能性を全開にできる「新しいものさし」があるとしたら、それはなんなのだろうか。むしろ「ものさし」を捨てた方がいい、と、前置きして三浦さんはこう語る。

「何かの基準に沿って評価されるのではなく、自分がそのままで誰かを喜ばせる体験が大切です。人は一人では生きられないのだから、自分自身が楽しいと思えることを追求したら必ずそのプロセスで誰かを巻き込んで相手を楽しませることにつながるはず」

言葉の背景には自分自身の体験がある。子どもの頃から声が大きいと言われ続けてきた三浦さんは、自分よりもプレーの上手い仲間たちに囲まれるなかで「声が届くから」という理由でサッカーチームのレギュラーに選ばれる経験をした。周りからしたら小さなことかもしれない。だが、自分自身でさえ思ってもみなかったことが自分の武器になる、とはそういうことなのだ。

HASSYADAI socialの活動で中高生と話すなかで「誰もが何かを持っている」ことへの確信をますます深める三浦さんは、「自分には何もない/何かを手に入れなくてはいけない」と思い込んで相談を持ちかけてくる中高生たちに対して「そうではない」と言い切る。

「講演で訪れた学校の生徒で、生い立ちや家庭環境から自信をなくしてグレていた子がいたんです。でも、講演の後ぶっきらぼうに連絡先を聞きにきてくれて、今ではうちの活動を手伝ってくれている。学校では勉強ができないから居場所をなくしていたけれど、本当はとてもコミュ力が高い。その個性を活かせる場と出会うことができたんです」

確かに学歴や偏差値のような根拠があれば人は自信を持ちやすい。一方で「根拠のある自信」は、その根拠が崩れた瞬間なくなってしまう脆いものだ。中学で成績が1番だったとしても高校では15番になってしまうかもしれない。上を見上げればキリがない。

それよりもなんでもいいから「根拠のない自信」を持つこと、あらゆることにプロセスとしての価値を見出だすことがひとりひとりの可能性を全開にする、というのがproject:ZENKAIのコンセプトでもある。

「project:ZENKAIは、全部背中を押す言葉が飛び交う、かつ立ち止まっても平気な空間にしたいと思っています。きっと、周りに萎縮してしまうような参加者もいるはず。でも、ガンガンいく人も気後れしてしまう人も、誰にでもすごいところがあるのでそれをシンプルに伝えていく。誰かとの比較ではなく“自分がすごいと思ったのだからすごい!”と、伝える側も全開でいかないと」

 

「ものさしを捨てる」ため、大人にできること

学歴、偏差値といったこれまでの「ものさし」から離れて、ひとりひとりの存在をそのままで価値あるものと捉えていく

ーーとても魅力的なありかただが、実現するためにはいくつものハードルがあることだろう。

その最たるものが、子どもたちを取り巻く大人の意識や行動だ。どれだけ子どもたちが自分の可能性を信じようとしても、周りが自覚的/無自覚的に芽を摘んでしまうことは大いにありえる。

そうならないため、三浦さんは周りに期待する役割について、自分の経験をもとにこう語った。

「ひとりひとりが持つ価値、おもしろさに気づかせることが大人の役割なんです。誰かに信じてもらえる体験を増やしていくことで、自分自身を信じられるようになる。ぼく自身人を疑ったり恐れたりすることが多かった。居場所を守るために人を傷つけてしまったこともあります。でも、いろんな人に出会って自分の可能性を信じてもらえたことがめちゃくちゃうれしかった。そのおかげでやってこれたんです」

三浦さんが15歳のとき、高校進学を諦めて進んだトヨタ工業学園への道。その道中での出会いを通じて、自分自身の可能性を信じられるようになった三浦さん。

彼の「学歴や偏差値だけで人を決めつけず、一人一人の可能性を応援できる社会にしたい」想いが、モビリティカンパニーへの変革を進めるトヨタ自動車の「次の社会のために、誰かのために、情熱を持って世の中をもっと良くしていく人を育てたい」想いと再び巡りあったのは、きっと必然だった。

そして、両者が共有する「多様な人が活躍できる社会」実現への意志が、「project:ZENKAI」として結実したのだ。

「このプロジェクトで重要なのは、トヨタが自社の採用活動としてやるわけじゃないということ。今回の参加者のような人たちが全開で活躍できるような社会をつくりたい、その思いだけでやるから意味があるんです」