2011年3月11日、私は福島の片田舎に住む小学6年生だった。

卒業式を目前に控え、春休みは何をして過ごそうかと夢想を拡げ、教室で友人との会話に花を咲かせていた時、突然、体を突き上げられたような縦揺れに襲われた。

今までに経験したことのない、長く、大きな揺れ。友人の悲鳴、棚から落ちる金魚鉢、割れる窓ガラス……。「怖い」と思う同時に、「いったい何が起こっているのか」という混乱もまた大きかった――

福島県の富岡町。私が住んでいたのは、原発事故のあった福島第一原子力発電所から、約15キロの場所だ。東日本大震災、そして原発事故は、私の人生を大きく変えてしまった。

三瓶 雄大
福島浜通りに生まれ、東日本大震災を経験する。大学進学をきっかけに上京し、大学の中で復興支援団体に所属するなどして、震災自体や人と人とのかかわりについて思いを巡らせてきた。昨年からは原爆体験について学びはじめ、「非被爆者への継承」などに関心を持つようになる。震災や原爆と言った「想像力を超えてくるような存在たち」は私たちが「生きること」にどのように影響を与えてくるのか。他者の経験を伺う事を通して、文章を作り上げていく事を通して、考え続けていく。

「震災」という経験

本震が収まった後は、津波の怖れがあるということで、友人たちと高台への移動した。その移動中に目にしたのは、川の水が津波の影響で逆流し、海水と混じり合いながら強烈な勢いで山の方へ上っていく光景だった。目の前で確かに起こっている、普段では信じられないような出来事。頭を思いっきりぶたれたような衝撃に見舞われた。

激甚災害や、不運な事故。私にとって、これらは本やテレビの向こう側で起こっていることであり、それが自分の身に起こるなど考えたこともなかった。どれだけ私の〈あたりまえ〉の生活が薄氷の上に成り立っていたのか、思い知らされた瞬間であった。今、この世界のこの時間においては、川の流れは下流から上流に向かうのだ。

翌日3月12日の早朝には、詳しい説明のないまま山間への避難を促され、その避難所のテレビで福島第一原発1号機の水素爆発の様子を見た。そして、その事故以降、私の富岡町での生活は終わりを迎えたのだ。

人に職を与え、地域経済を活性化する存在とされていた原発。エネルギー資源の乏しい日本で希望の発電システムと教え込まれてきた原発。そして「絶対安全」という神話に裏打ちされていた原発。

21歳になった今なら、それがただの虚構であり、一利益集団であった電力会社と責任の所在があいまいである国によって、生活を一変させかねない装置を動かすことがどれだけ危険であったのか、少し想像力を働かせることはできるだろう。

しかし、この事故は「〇〇が悪だ!」といった一元的な見方におさまる問題ではない。会社、国、地域住民、日本的システム、日本的思考。原発にかかわるプレイヤーは数多く存在し、それらが大小ありながらも混じり合って「虚」を成立させていたのだと私は考える。そのような複雑な状況と思いの中で、私は今生きている。そして同時に、私は東京のアパートの一室で、事故を起こした当事者の電力会社の電気で充電をしながらパソコンに向き合っている。〈あたりまえ〉とはなんなのだろうか。

「原爆」という経験

9年後の現在、私は大学で「原爆と人間」について研究している。

震災後、同じ県内の親戚の家への避難を余儀なくされ、避難先で中学校、高校生活を送った。当時は勉強や部活に追われ、原発事故や震災がどういうことだったのか、じっくりと腰を据えて考えることがなかったように思う。

そしてその状態のまま、私は大学入学を機に上京してきた。そこで原爆に関するゼミを受講し、「自分たちの意志とは関係なく、一瞬で生活を奪われた」という面で、原爆と自らの被災の経験が重なってくるのではないかと思い至ったのだ。以降、この震災と原爆は、私の思考の中心となっていく。

震災と原爆。

普段の生活ではなかなか近接することができない、想像力を大きく超えてくるような出来事かもしれない。それらの悲惨さ、残酷さ、無慈悲さ、そして人間の業……。あまりにも複雑で重層的なので、時に私もこの事実に意識や思考が追い付かず、宙ぶらりんの状態になってしまう。

しかし震災と原爆は、私の「生きる」ことの文脈に確かに存在し、そして考え続けていかなければならない対象なのだ。単に悲しいや辛いといったことだけでなく、これらを通して提示される、社会や物事の多義性を考えていかねばならない。

無論、原爆は1945年8月6日に広島、9日に長崎に使われたものであって、1998年に生まれた私は直接的な経験をしているわけではない。私にとって原爆とは、大学生になるまで教科書の向こう側の世界でのお話だった。

しかし、大学で原爆に関する研究をおこなうゼミに入り、そこで被爆者の方の直接の話を聞いたとき、私の意識は一変した。

被爆者の方が語り始めたとき、その方の纏う雰囲気がガラッと変わり、目をくぎ付けされた。まるで、その人が突然、温和なおじいさんから思わず「畏怖」してしまうような存在に変異してしまったようだった。そのとき、語られる体験の凄惨さのみがその人を変えているのではなく、その凄惨さを越える何かが被爆者を全く違う存在にさせているのだと、感じた。それから、人を大きく変え得る「原爆」とは何なのか、私は考えずにはいられなくなってしまったのだ。

「原爆」がどうしようもなく被爆者を苦しめる「想像力を超えた圧倒的存在」であるのならば、私にとってその存在は震災であり、津波であり、そして原発であった。〈あたりまえ〉を木端微塵に破壊し、今にまで尾を引く存在たち。

自らの文脈と原爆との間に共通点を見出し、それを重ね合わせたとき、私は教科書の向こう側にあった原爆という存在を、自分の側に近づけ、自らの経験として構成することができたと感じた。

「想像力を超えた圧倒的存在」を介して私は、私の中に生まれたきのこ雲の下に立ち、その地獄を思い浮かべる。自らの中に生まれたやりきれなさや静かな怒り。そこから目を背けず、考え続ける。そのような営為の帰着点のひとつとして、このコラムで、震災と原爆をバックグラウンドに持つ方々と対談してみたいと思っている。

自分で考えること、想像力を拡げていくこと

震災と原爆。「想像力を超えた圧倒的存在」は私を突き動かし、常に考えさせる。その先には、多義性の発見や、或いは人が「生きること」への洞察がふっと現れてくると思うのだ。

原爆は怖ろしく、また遠い存在だというある種の教科書的な見方は、誰もが、どうしても持ってしまうものだろう。しかし、被爆者の方の話を伺うと、原爆という存在が今でも被爆者の方の精神や身体をむしばんでいたり、また人生の流れを大きく変えてしまっていることを知る。そのとき、原爆は単に過去のものではなく「今でも生きている」という実感が強く浮かび上がってくる。

また、多くの被爆者や、被爆者運動に携わる方のお話を見聞していると、それぞれがさまざまな原爆の捉え方をしているという、当たり前ではあるが、見落としてしまいがちな事実に気がつく。

「怖ろしさ」一つとってもそのニュアンスは一人ひとり違うものであるし、或いは原爆の話から、現代日本の政治の話に発展したり、ライフスタイルの話に派生したりといったことは決して稀ではない。一つの物事に一様な見方など決してなく、一人ひとりの視座が必ず存在しているのである。

そこには、今まで「遠い存在」としてしか原爆を捉えていなかった私たちをハッとさせるような事実が、語ってくださる人の数だけ現れてくるのだ。そこに自らの想像力を馳せていく過程の中に、借り物ではない自らの考えが生まれる瞬間が必ずあるだろう。

これからのコラム記事の中でも、そのような語ってくださる方のストーリーや、私自身の実感を丁寧に記述し、多くの方と共有できれば幸せだと思う。対談させていただく方々と私だけの対話でなく、それを読む方々と文章の間で対話が生まれるような、そんな言語化の道のりを歩みたい。