この社会でひとりぼっちのような気持ちに襲われる夜がある。自分ではどうしようもない虚しさを持て余し、トボトボと家路につく飲み会の帰り道。

「私はあの場に必要のない人だったなぁ。なんであの時、気の利いたこと言えなかったんだろう」

大勢での飲みの席を盛り上げるため、タイミングを見計らって面白いことを言い合うコミュニケーション。話し上手な人が司会者のように場をまわし始めると、できるだけ身を隠し、鳴りを潜めるようにしている。面白いことを言える瞬発力のない私は、恐怖で胸がいっぱいになる。その恐怖と緊張をヘラヘラと笑って誤魔化す自分のこともあまり好きにはなれなかった。

「少人数で自分の近況や将来のこと、仕事のことをおしゃべりするのは好きなのになぁ......」

そんなひとり反省会をする帰り道、私はイヤフォンから聴こえてくるパーソナリティの声に居場所を見つける。好きなことを好きなようにしゃべり、日常のたわいもないエピソードですら何だかクスッと笑えてしまう空気感。人の発言に「正解・不正解」と白黒つけない優しさが私を包んでくれた。

無理しなくていいんだな。私は私を大切にしてくれる人たちとの小さな輪の中で、自分の好きなタイミングで話せばいい───。

ふうと一呼吸して、「今度久しぶりにゆっくり話そうよ」と大切な友達にLINEを送った。

大きな波に飲み込まれそうになったとき、私をゼロ地点に戻してくれるのが音声メディアだったように思う。

この連載では、音声メディアをこよなく愛する筆者から、「自分を愛せない夜に効く、音声メディア案内」をお届けしたい。

その前に、今回は音声メディアの魅力を私なりに因数分解してみようと思う。なぜ自分を愛せない夜のお供に適しているのだろう。

佐藤伶
1995年神奈川生まれ。フリーのライター・編集者。RIDE MEDIA&DESIGNにてWEBマガジンの編集を経験した後、「どうせ働くなら人の生きづらさを溶かすものがいい」と一念発起しフリーランスへ。現在は社会課題に特化したPR会社morning after cutting my hairに所属しながら、物書き・編集・PRを行う。

音声メディアが持つ、“未完成”という価値観

飲み会の帰り道、私を癒してくれた音声メディアは、仲良しな女性2人の他愛のない会話を覗き聞きするようなPodcast番組だった。
話にオチがあるわけでも、何か強いメッセージがあるわけでもない。なんなら、話があっちへこっちへ飛んでいったり、途中で何を話しているか忘れてしまったり。

何か目的を持って聴くには物足りないかもしれないが、私にとってはそのゆるさが「人同士の会話ってそんなもん」と思い出させてくれる。気の利いたことを言わなくちゃ!とこわばっていた肩の力がストンと抜けるのだ。このゆるりとした安心感は、音声メディアが持つ“未完成を許容する空気”から生まれているのではないだろうか。人としての矛盾も楽しんでしまうようなコミュニケーション。

なぜ音声メディアには“未完成を許容する空気”が生まれるのか。それには、2つの理由があると考える。

ひとつは、2~3人の少人数の会話をベースにしているから。

気のおけない友人と話している場面を想像してみてほしい。話の行く先も特に考えず、その時に伝えたい言葉が口をつくだろう。2~3人のちょっとした会話を切り取る音声メディアだからこその自由さがそこにはある。ちょっとしたアクシデントも許しあう空気感が話し手の人格を浮き上がらせてくれる。どれだけ著名な人であっても、身近に感じられてしまう音声メディアの力はここにあるように思う。

一方、テレビには視覚があるため、登場人物が大勢いる場合が多い。ひな壇にずらりと座るタレントが場を盛り上げようと面白いエピソードを次々に話し、司会者がそれを回していく。一人ひとりに与えられる時間が限られている中で、いかに的確にボールを打ち返せるか。私が苦手な飲み会でのコミュニケーションは、テレビの影響も大きいかもしれない。少人数なら自分らしくいられても、その他大勢の“見ている人”がいる場ではどうしても身構えてしまうからだ。

ふたつ目は、パーソナリティーとリスナーの継続的な関係が築かれているから。たった一回で終わる番組は比較的少ない。毎週、隔週、不定期とペースはそれぞれだったとしても、聞き続けていればパーソナリティの人格がよりリアルに伝わってくるようになる。

毎週のように同じ番組を聴いていると「先週言ったことと矛盾するようなんだけどさ……」というセリフをよく聞くのだが、私はこの言葉がとても人間らしくて好きだ。いくら話し上手なパーソナリティであっても、話が矛盾することも、自分の考えを変えることだって時にはある。当たり前に皆が持っている「人とのしての揺らぎ」を再認識させてくれる。

 

完成された物語の息苦しさ

そもそも私が音声メディアの“未完成さ”に惹かれたのは、編集者という仕事柄“完成された物語”を突き詰めることへの苦しさからだった。

この日の取材も、目的を持ったメッセージを打ち出し、届けたい人に届ける記事を作りたいと意気込んでいた。念入りに取材相手の過去記事を読み漁る。そのインタビュー企画は、社会的に活躍している(と、こちら側が定義した)著名人をいわゆる「成功者」として扱い、その成功までの軌跡を伺うもの。

記事を面白くするには、過去の失敗談が今の成功につながっている道筋を作り込み、一つの魅力的な物語にする必要があった。取材では、見出しとして使えるようなキャッチーな言葉も引き出したい……!

そうして当日は、いっぱいのリサーチ資料とすでにほとんど組み立てられている物語を持って取材に臨む。しかし取材相手は、笑みを浮かべてこう言った。

「今日言ったことは明日忘れるかもしれない。だから、成功の秘訣らしきものをこのインタビューで語ったとしても、それは今の自分が過去を脚色しているだけかもしれないし、明日にはまったく違う風にその過去を捉えている可能性もある。僕は基本的に今しか見てないから、この記事を読み返すこともないと思う」

結局その人は、最後まで「成功の秘訣らしきもの」を答えることはなかった。未来の成功のために計算して選択してきたわけでなく、たまたまその時にそうしたかったから。すべての行動理由がその一点張りだった。

恥ずかしながら、その時に初めて取材相手を物語として消費しようとしていた自分に気がつく。

人の人生や考え方はとても流動的で、そんな簡単にまとめられるものじゃない。人の人生を狙った通りに段取り、たった一つの記事にまとめてやろうなんて、おこがましいにもほどがある……」

それからは、書き手としても、読み手としても「完成された物語」には注意を払うようになった。

あまりにもきれいに描かれた成功談は、時に私を鼓舞してくれたこともあったが、どちらかといえば自己嫌悪に陥れることが多かったように思う。夜遅くまで徹夜したり、理不尽な言葉も受け入れていた苦労話から、今の成功に至るまで。

「体力も忍耐もない私はこんな風にはなれない」
「私にはこんな人脈もない」
「そもそもこの人みたいに頭が良くない」
「やっぱり私はだめなんだ」

完ぺきに見える人と比べて自分を嫌いになる夜を何度も過ごしてきた。

でも、そこで一度立ち止まる。完ぺきに見えるその人を私は本当に一人の人間として見れているのだろうか。その人の物語はあまりにも綺麗なところだけ切り取って編集されていないだろうか。

未完成でいい───。音声メディアから教えてもらったその価値観を、日頃から心に留めてく。そうすれば、ちょっとだけ自分を俯瞰して、自己嫌悪の暗闇に染まった夜を少しだけ早く抜け出せるかもしれない。

 

自分を愛するための音声メディア案内、はじめます

自分のことを愛せない夜は、自分と社会との距離感をチューニングする必要がある。自己嫌悪に陥ると、社会と自分の距離がグッと近づき過ぎてしまって、社会は私を一方的に評価してくる場所に思えてしまう。

そんなときに音声メディアの“未完成さ”に触れると、社会とは得体の知れない大きな圧力のようなものではなく、顔を思い浮かべられる大切な人たちとの小さな輪でできていることを思い出させてくれる。

そして、完ぺきでないところこそ、その人らしさであり、私もあなたも未完成でいい。そう思えたとき、自分の居場所は社会ではなく、自分自身の手の中に戻ってくるのではないだろうか。

この連載では、「自分を愛せない夜に効く、音声メディア案内」をお届けする。私の言葉だけでは、自己嫌悪の暗闇に陥った人を救い出すことはできないかもしれない。でも、この連載を読んで、紹介する番組を聴いてくれた人の視界が少し広がることを祈って。

<Illustration by マリワ>