自らの身体と語り合い、死期を悟り、緩やかに往生へと向かう死もあれば、
今日の次には明日が来ることを疑わなかった人々が、突然に命を奪われる死もある。

1945年に長崎・広島で日常を営んでいた人々の死は、間違いなく後者であった。
しかもその死を生み出したモノは、同じ人間によって作られた兵器であったのだ。
ひとつひとつの人の命が、人間の業によって軽んじられ、切り捨てられていったのである。

その歴史と、きのこ雲の下にいた人々の死に向き合い、思いを凝らす人がいる。

今回お話を伺ったのは、かつて長崎でテレビ局の記者として活動し、これまでに多くの被爆者、戦争体験者の話を聞いてきた、フリージャーナリストの関口達夫さん。

「特ダネを追うことにしか興味がなかった私だが、被爆者の声を聞いて生き方が変わった」

関口さんはそのように話す。そして今は、原爆や戦争の犠牲となった「死者たち」のことを強く思いながら、核兵器、戦争根絶のために活動を続けているのだという。

関口さんを突き動かすものとはなにか。その根底にある思いを聞いた。

三瓶 湧大
福島浜通りに生まれ、東日本大震災を経験する。大学進学をきっかけに上京し、大学の中で復興支援団体に所属するなどして、震災自体や人と人とのかかわりについて思いを巡らせてきた。昨年からは原爆体験について学びはじめ、「非被爆者への継承」などに関心を持つようになる。震災や原爆と言った「想像力を超えてくるような存在たち」は私たちが「生きること」にどのように影響を与えてくるのか。他者の経験を伺う事を通して、文章を作り上げていく事を通して、考え続けていく。

関口さんの歩み

関口さんは就職し、被爆者に取材をするようになるまで、「原爆とは無縁」だったのだという。

「小学生の頃長崎に引っ越してきましたが、私が子供の頃は平和教育もなく、学校の慰霊祭でしか原爆に触れることはありませんでした。中学、高校、大学も長崎でしたが、学生時代に原爆について深く考えることはなかったですね。長崎放送に就職したのち原爆平和担当になり、30年ほど取材を重ねてきました。そこから次第に、原爆被害の残虐性を知りました」

とりわけ関口さんの意識が切り替わったのは、ある一人の被爆者の方にお話を聞いてからだという。その方の足跡と関口さんの思いを、私は伺った。

「当時女学校4年生だったその方は、原爆の被害で家族を全て失ったのです。母は倒壊した家屋の下敷きになり、逃げなさいと姉に指示した後火災で焼かれました。その姉は、自宅からなんとか抜け出したものの、爆風で吹き飛んだナイフのようなガラスが背中全面に突き刺さり、6日後に亡くなったのです。もうひとりの妹も、爆発の衝撃で気絶したまま炎に巻かれました」

「その方は家族を失っただけでなく、終戦後も移住、差別、労働など…多くの困難に直面しました。そのような中でも、その方は多くの職業を経験しつつ、子供を育てていったのだといいます。そのたくましい生き様に私は感動したのです」

関口さんは多くの「死者たち」のエピソードを聞き取り、その死を生み出した原爆の非人道性を感じ取っていったのだという。凄絶な足跡と、被爆者の語り自体が、関口さんの心を打ち、彼の「生き方そのもの」が変わっていったのであった。

「名もなき死者たち」が訴えかけるもの

関口さんは「死者たち」という言葉の前に、「名もなき」というフレーズをつけて語ることがあった。しかし、多くの被爆者や戦争体験者と関わり、取材を重ねてきた関口さんにとって「死者たち」は決して名を失った存在ではないはずではないか、と私は考えた。なぜあえてそのように表現するのか、私は疑問をそのまま関口さんに投げかけてみた。

「原爆で命を失った人の6割は女性や子ども、お年寄りも含む非戦闘員なんです。無謀な戦争によって殺されたのにも関わらず、彼等の記録は残っていない。生き残りの家族を失い、お墓もないとなると彼らが生きていたという証は何も残らず、彼らを記憶する者はいないんです。すごくそれは理不尽な事です。そこであえて『名もなき』と付ける事で、無辜の民が殺されて行った事、無謀な戦争を始めた事、あるいは核兵器の非人道性を訴えたいと思ったんです」

関口さんにとって「名もなき死者」とは、戦争によって「生きていた証を奪われてしまった死者」「生存そのものが抹殺された人」という意味あいで使われていたのであった。死者は原爆被害の犠牲になるまで、私たちと同じ「日常」を営み、未来に向かって生きていた一人の市民だったのである。原爆はそれをあっという間に消し去ったのだと改めて気づき、私は言葉にし難いやるせなさを抱いた。

今日の次には明日が来ることを疑わなかった人々が、突然に命を奪われる死。「そんなことはおかしい」関口さんは語る。

原爆は悪だ、ということは一つの「当たり前」でありすぎて、なにが悪なのか、私たちは考えずに過ごしてしまう。そこにハッと気づきを投じてくれる様な力が、関口さんの語りにはあった。遠い歴史の先にあった死が、ジブンゴトになっていった瞬間であった。

死者と「語り」、声を「汲みとる」

現在も長崎に住む関口さんは、市内を散歩しながら、今までお話を聞いてきた死者が眠る場所を巡り、彼らに語りかけているのだという。その営みに、関口さんは何を見出しているのだろうか。

「ひとつは、弔い。彼らの場を巡ると証言が浮かび上がってくるので、まずは『成仏してください』と声をかける。熱かったでしょう、苦しかったでしょう、と。心の中で」

「そして、彼らがどんな事を訴えかけているのかを考える。水が欲しい、助けてくださいという事だけでなく、戦争が終わって今年で75年、何を思っているか考える。こんな自分たちのような理不尽な殺され方をする人を生み出して欲しくない、繰り返さないで欲しいと願っている、私たちに語りかけているのだと解釈するわけですね。それに対して私は皆さんのような犠牲者を出さないように、日本の仲間たち、世界の仲間たちと協力して頑張ります、と声をかけるようにしているわけです。自分で声をかけているだけなんですけど(笑)」

関口さんは取材を積み重ねる中で、彼らの生き様を自らの内に大切に取り込み、自らの信念や営みとして昇華させていったのだなと、私は感じた。関口さんの言葉で死者に語りかけ、彼らもそれに対して応答し、それを関口さんなりに解釈していく。ひとつの対話が、そこにあったのである。

「彼らから聞けることは、私のワンパターンの解釈ではあるんですよね。もっと彼らを知れれば、違ったことが聞けるようになれるかもしれないですし、違った言葉もかけられるかもしれない。ですので、もう少し彼らに関して取材してみようと思っているんです」

私たちが語る相手は、必ずしも隣にいる生身の人間だけではない。遠くに住む大切な友人、家族、そして死者。彼らを思う、彼らならどうするだろうかと考える、「わたし」に何を願うだろうかと思いを凝らす。ただそれだけで、彼らは私たちの目の前に立ち現れるのではないだろうか。

「僕自身、死者たちに語りかけることは特殊な事ではなくって。亡くなったお袋の写真に向かっても、私は毎日のように声をかけている。それを戦争犠牲者、被爆者の方々に置き換えてみるんですね。そして、彼らとの関係が深ければ深いほど、彼らの情報が増えていくほど、語りかけられる言葉も増えていくのだと思うわけです」

関口さんにとっては、「お袋」さんと「名もなき死者」たちが重なり、双方が大切な存在として、関口さんの意志と営みの底に根付いているのである。表層的な思いに止まらず、人間の根源的な位相まで踏み込み、そこから原爆否定の言葉を紡ぐ関口さん。その人となりに、ただただ圧倒されるばかりであった。

現在を生きる私たちが、過去を考える

ややもすると私たちは、原爆や戦争について考えることに一歩気後れしてしまうかもしれない。「学校で政治的な発言をすることはなかったですし、今の子たちもそうだと思います。わたしも仕事を始めるまで、そういったことには無縁でした」と関口さんは語る。

しかし近年では、平和活動も活発になり、市民権も得られてきている。国際的な反核の空気も成長していっており、今年1月に核兵器禁止条約が発行されたのは記憶に新しいだろう。

「現在−過去」と、「政治−生活」との隔絶、そして「生–死」との境界の難しさなどから、私たちが常日頃から原爆について考えることは容易ではないように思える。しかし、関口さんの生き様は、決してそうではないことを私たちに伝えている。

「若い人が行動してくれるのを、被爆者の方は喜んでいるのではないか」

関口さんはインタビューの最後にそう語った。一見遠そうに見える物事も、すべては地続きであり、私たちの「生きる」ことに正の影響も負の影響も与えている。目には見えないものを、見えないなりに想像してみようとすることを、私たちは大切にすべきなのかもしれない。