「まずは自分の周りを見る、隣の人に手を差し伸べることが大事かなと思っていて。そういったことから自分と平和がつながってくるんだと思っています」

ひとりの看護師として、ひとりの国境なき医師団(MSF)スタッフとして、長年医療の現場に携さわり、現在はMSFの海外派遣スタッフ採用の担当を務めている白川優子さんは、平和についてそのように語った。

平和っていったい何だろう。漠然とわかってはいるつもりでも、言葉の意味を、私たちは明瞭に説明できない。単に戦争がなければ平和といえるのだろうか?おそらく、そうではないだろう。誰もが自分自身や社会に葛藤し、痛みを抱えながら毎日を生きているのだから。

「平和の定義って、一人ひとり違うと思うんですよね」

長年、紛争地の現場にいたからこそ、醸成されてきた白川さんの平和に対する思いをうかがった。

三瓶 湧大
福島浜通りに生まれ、東日本大震災を経験する。大学進学をきっかけに上京し、大学の中で復興支援団体に所属するなどして、震災自体や人と人とのかかわりについて思いを巡らせてきた。昨年からは原爆体験について学びはじめ、「非被爆者への継承」などに関心を持つようになる。震災や原爆と言った「想像力を超えてくるような存在たち」は私たちが「生きること」にどのように影響を与えてくるのか。他者の経験を伺う事を通して、文章を作り上げていく事を通して、考え続けていく。

挑戦の道のりと、母の言葉

国境なき医師団のスタッフとして輝かしく活躍する白川さん。紛争地域で傷ついた人々を救う道を志した当時を、こう振り返る。

「看護師になって以来、国境なき医師団はあこがれの対象でした。そしていつからか、自分にもできるのではないか。自分も国境なき医師団として紛争地域で活動してみたい。そう思うようになっていったんです」

30歳を前にして、本格的に夢を追いかけ始めた白川さんだが、叶えるまでの道は平坦ではなかったという。専門学校を卒業し、豊富な看護師としての経験があったとしても、海外の医療現場・紛争地域で活動する挑戦は一筋縄ではいかなかったのだ。

「英語が、大きな壁でした。いくら看護師のキャリアがあっても、知識が豊富でも、現場で他の国のスタッフや地域住民とコミュニケーションが取れなければ仕事になりません。働きながら空いた時間に必死に勉強をするも、なかなか求められるレベルまで達せず……。心が折れそうになることもありました」

それでも頑張れたの理由は、なんだったのか。

「目標に向かって頑張り続けた、というより『あきらめきれなかった』んです。そんな自分の心に従って、海外留学をしながら現地の医療機関で働く、新しいキャリアに踏み出すことにしました。とはいえ、人生の転機となる大きな決断。不安も伴いましたが、母の応援に救われました。当時、いつまでも夢を追い続けることをよく思わない世間の風潮もあって。そんな時、母が背中を押してくれたのが何よりも大きかったですね」

確固たる決心と、母の言葉。それが白川さんのスタートラインなのであった。その後、36歳で国境なき医師団に採用された白川さんは、その後パキスタンやシリアなど、世界各地の現場を周り、多くの市民に手を差し伸べてきたのだという。白川さんのあたたかな語り口からは、その経験の積み重なりが垣間見えるようであった。

「ひとり」の人間と接するということ

罪なき市民が、戦闘によって、卑劣な人間のエゴによって、傷を負う。命を奪われる。白川さんは、まさに紛争が目の前で繰り広げられている現場で、活動を続けてきた。

「本の中でしか見なかった光景を現実に目の当たりにして、戦争ってこんなにも人を傷つけるんだと知ったんです。自分たちが手を差し伸べなければ目の前の人たちが死んでしまうような場で、やるしかないんだという思いが強かった」

忙しく治療にあたっている最中にも、とめどなく新しい患者は医療拠点に搬送されてくる。全く休めない日も多くあった過酷な環境でも、白川さんは一人ひとりの患者と向き合うことを大切にしてきたのだという。

「一対複数の現場なので、どうしようもならないジレンマもあるけれども、一人ひとりに向き合うという意識を大切にしていました。集団で運ばれてきたのだとしても、患者さん一人ひとりに人生がある。ちゃんと名前を呼んであげる、手を握ってあげる」

「ニュースや新聞では、空爆で20人30人死傷者が出たと数字で括られてしまう。そこに違和感があって。その一人ひとりは、私たちと同じ人間なんだよということを知ってほしい」

戦争や紛争の犠牲者を、“海の向こうで在った何十人もの死”として括ってしまうことは容易い。しかしその人たちは、人としての身体を持ち、明日に思いを馳せ、心に沿って生きていくことのできたはずの「私たちと同じ」存在だ。

困難な現場であっても、一人ひとりに思いを凝らしてきた白川さん。その経験は、「隣の人に手を差し伸べる社会になってほしい」という白川さんの平和観を段々と生成していく。しかし、「手を差し伸べる」ことの重要性を白川さんが改めて確認できたのは、故郷である日本と世界との間に大きなギャップがあったからだという。

平和という「奇跡」

「世界では大変なことが起こっているのに、どうして日本では知られていないんだろう、どうやったら見向きしてくれるんだろうと考えていた時もありました」

現在の日本には空爆もなければ、紛争に起因するモノの不足もない。過酷な現場に何度も足を踏み入れているからこそ、白川さんにとって、日本と世界との隔たりはあまりにも大きいものだった。

しかし、今日が平和であったから明日も平和であるとは限らない。白川さんは、今までは穏やかな日々が続いていたけれども、戦火の広がりの中で「あっという間に戦争になってしまった」地域を見てきたなかで、「平和って、ちょっと油断すると壊れてしまうものなんだ」と気が付いたという。

「平和だった地域が平和じゃなくなっていく過程を見てきた中で、平和を管理していくことって実は難しくて、だからこそ重要なだとわかったんです。そういうことを意識しなければならないと伝えたくって」

日本のように平和が維持されている状態は、当たり前ではなく「奇跡」なのだ。そのことに改めて思いを馳せたうえで「平和を楽しむ」ことをしてほしいと白川さんは語る。

「学校に行けず夢が絶たれる子が大勢いる国もあるなかで、日本はそうではない。少なくとも紛争地域に比べたら自分次第で何にでもなれる環境は整っています。これは世界的に見れば、すごい稀なことです。よく『平和ボケ』なんて揶揄されますが、これでいいんだよ、と伝えたい。むしろ日本はこれからも、平和であることを当たり前にしなくちゃならないと思っています」

平和であることを「奇跡」「稀なこと」と胡坐をかかず、それを「当たり前」にし、アップデートしていく。今後の日本の平和は「漫然と与えられるもの」ではなく、「私たち一人ひとりがつくりあげていかなければならないもの」なのであった。

そのうえで白川さんは、「私たちは何にでもなれる」チャンスがあるのだと語る。日本の平和に思いを凝らし、一人ひとりの可能性を追い続けるということ。私たちの気持ちをフッと軽やかにしてくれるような白川さんのエールである。

目の前から始まる「平和」

では、私たちが平和を当たり前にしていくためには、どうしたらいいのだろうか?白川さん曰く「隣の人、身近なに手を差し伸べる」ことが必要なのではないかと言う。その根底にある思いを伺った。

「戦争のない日本の社会は、他の世界から見たら絶対に平和です。でも、日本で活動するうちに、必ずしもそうではないとも思うようになって。会社、学校、家庭で過ごす中で心地よさを感じられなかったり、嫌な思いをして、息苦しさを感じている人って大勢いると思うんです。そういった意味では日本人全員が日本を“平和な国”と思ってるかと言ったら、そうではない。平和のベクトルは、国によって、人によって全然違う」

白川さんのこの言葉には、思わずハッとさせられる。「戦争のない」今の状態は、世界全体から見たら、疑いようもなく「平和」であるだろう。しかし、日本に生きる一人ひとりが「生きづらさ」を感じているとき、個人レベルの文脈で「平和」が達成されているとは言えない。

私たちは自分とは「全く違う」他者や社会とつながりあって生きているのだから、大小有れども、その関係性の中に齟齬や軋轢を生まずにはいられない。いじめ、偏見、多様性を認めない空気……、困難な社会状況の中で、歪みもまた顕在化してきている。

「海の向こうの状況に気をかけることも大切。同じくらい、自分の周りの人に手を差し伸べることも大切だと思う。学校や家族、会社など、自分の一番身近な社会を平和にすることが、ゆくゆくもっと大きな平和、いわゆる世界や国の平和につながるんだと思います」

身近な人に、社会に手を差し伸べる。白川さんの言葉は、単なる道徳的な指摘という位相にはとどまらない。お互いの「生きづらい」が「生きやすく」なるように、ふと忘れがちな、他者に思いを馳せてみる。それは、痛みあふれる世界におけるひとつの平和観なのである。

「私もはじめは、いわゆる“世界平和”について多くの人に考えてほしいと強く思っていました。でもそれだけではなくて、隣にいる人に手を差し伸べる重要性にも、10年間近く現場にいたからこそ気が付くことができて。そこから、始められることもあるんじゃないかと」

はじまりは、ほんの小さな平和であるかもしれない。しかし、それも積み重なっていけば、大きな平和となっていく。だからこそ、私たちは隣にいる人と手を取り合って、笑い合うのだ。そこに、個人から始まる平和がある。そして、それが「平和が当たり前」の日本をつくることにつながっていく。