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豪雪限界集落、区長の本音-「子どもに帰ってこいとは言えない」まちに起きたこと

2011年の東日本大震災からちょうど6年を迎えた日、70seeds編集長の岡山は、新潟県の中でも一、二を争う豪雪のまち、そしてブランド米である「魚沼産コシヒカリ」の主な産地のひとつでもある、魚沼市横根地区にいました。
 
70seedsではこれまで2回、このまちを訪れた大学院生たちの発案から生まれた、「ひとつの産地でとれたお米だけ」を直接届けるKomenomaの取り組みについての記事を公開してきました。
 
「なんで来たの?」から「次いつ来るの?」へ―横根の限界集落が“よそもの”を歓迎してくれるまで
「何もない」は予防線!?地域の誇りを掘り起こせ!Komenomaがお米に見る可能性
アーリーリタイヤ×学生で一歩先へーこめのまの“異世代”地方創生
 
ですが、これまでの記事から見えた横根の姿は、あくまでも「よそもの」から見たもの。その土地で生まれ、暮らしてきた「地元生活者」から彼らの取り組みはどう映っていたのか、そして彼らの取り組みが何をもたらしたのか。実際に現地を訪れてその空気を感じることにしました。
 
諦め、開き直り、希望という言葉。それから、風化しつつある災害の話。現地で見、そして感じることができた様々な「よそものと地元のリアル」を届けます。
 
 

まち中の人が集まる「雪まつり」

 

東京から車で4時間、どんどん雪深くなっていく道のり。到着すると「SNOW FES」と書かれた大きなモニュメントが。実は当日、横根では毎年開かれている「雪まつり」の日ということで、まさに準備の真っただ中。さっそくかまくらづくりを手伝うことに。
 
 

夕方5時少し前、おまつりの始まりに合わせてまちの人々が会場に集まり始めます。焼き鳥や豚汁、おそばなど、できたての食べ物が次々にふるまわれます。
 
 

 

そうこうしているうちにおまつり開始の合図が。あいさつを務めるのは区長の渡辺さん。長年続く雪まつりの開会を穏やかに宣言、参加者から暖かい拍手が沸き起こりました。
 
 

一番の盛り上がりを見せた、「餅まき」も終わり、スタッフも参加者も一緒に語らいながら、2時間ほどでおまつりも閉幕。横根の夜は静かに更けていきました。
 
 

 

 横根で生まれた。若い人はいなくなっていった

 
翌朝、まつりで挨拶をする姿が印象に残った渡辺区長にインタビュー。子どもの頃から過ごしていた横根のまちを中心となって引っ張る立場になった今、その眼には何が映っているのでしょうか。
 
 


―「雪まつり」盛り上がっていましたね。私は九州の出身なので、こんなにすごい雪は初めて見ました。

 
これでも、この2年は少ない方なんですよ。私が子どもの頃は5メートルを超えることもあって。
 

5メートル!想像もつかないです…。

 
除雪機を3回まわしてね、道を確保するんです。朝2時ごろに起きて、次は通学時間。そのあと朝ご飯を食べてもう1度。昔は親がかんじきをはいてふもとの中学校まで約3キロ道を作っていたんですよ。特別豪雪地帯に指定されて、大学の先生と一緒に雪を固めて道をつくる研究をして。「道路は万全だから帰ってきてほしい」というのが当時の村長の考えだったんですね。
 
 


―若者たちは帰ってきたんですか?

 
当時はね。各家の長男たちが少ないながらも戻ってきて田んぼを守っていました。そういう教育を受けていたからね。それが今の自治会役員たちです。でも、そこから下の世代はほとんどいません。子どもがいなくなってしまった。
 

―渡辺さんはずっと横根に?

 
住まいはずっと横根ですが、合併後、魚沼市で地域活性化を担当する部署にいたので、湯之谷まで通っていました。退職して横根を改めて見てみると、地域がいまいち元気がないんじゃないかって。そしたらたまたま区長をやることになり、地域おこし協力隊の存在を知ってという形で今に至っています。
 

―大学生との取り組みを始めたときのきっかけは?

 
 

当時はまちの先(限界)が見えてしまっていて、活性化するより維持するので精いっぱいになってしまっていたんです。だから新しい考え方をいれていきたいなと。移住を増やすとか交流人口を増やしていく、というのも限界がある。でも、我々が死ぬまでは何とか地域を守りたい。そういうところで、地域おこし協力隊の大野さんに来てもらったんです。そして新潟県の大学生プロジェクトに大野さんから応募してもらって。
 

―大学生が来てみてどう変わりましたか?

 
若い人に来てもらうと少し違う感じが生まれましたね。「あと10年でなくなるのかな」なんて話していたけれど、地域がなくなるのが延びたんじゃないかなんて思っています。閉塞感があったのが、今の時点で若干の希望が持てて、生きていくことができそうだって。
 

―人口も増えているんですか?

 

10
年で15世帯は確実に減りました。高齢者の一人暮らし、ふたり暮らしがすごく多いから、病気で倒れたら終わりなんです。我々の歳から下の人たちがいるところが、張り合いや生きがいをもって生活できるようになればいいなと思っています。
 
 

子どもに戻ってこいとは言えない、でも。

 

―きっと、人が減っているのは横根だけじゃないんですよね。
 
魚沼市はこの10年で16%(約7000人)減ったと言われています。入広瀬地域(横根を含めた旧入広瀬村の単位)4つ分。横根だけじゃない。新潟県の合併したところはどこもそうです。新潟市は政令指定都市になったけれど、周辺都市はどこも空き家が増えている。
 

―渡辺さんが生まれた頃はもっと人がいたんですか。

 
本当にいました、こどもがたくさん生まれた世代に生まれたのもあって。当時は分校併せて100人くらいいた、学年で25人くらい。
 

―当時、まちにはどんな仕事があったんですか?

 
田んぼを中心に生きていました。時代の流れで、家電が出てきたらそれを買うお金が必要になったので男は東京に出稼ぎに。公共事業がどんどんと進出してきたら、建築業に勤める人も出てきましたね。この小さいまちにも建築業が10社とかできてそこに勤めるようになって。でもそれだと若い人が戻らないのでどうするか考えなくてはいけなくなったんです。
 
 


―例えばどんなことをしていったんでしょう。

 
まずは田んぼを人力から機械化しました。この辺は小さいたんぼがたくさんだった、それを機械が入るように大きくして。それで、建築業に勤めながら土日は農業という働きかたが可能になったんです。
 

―その取り組みで若い人たちは
帰ってきたんですか?

 
いや、集団就職した人たちは帰ってこないんです。でも仕方ない。大学を出るとほかにも仕事があることがわかるんだから。道路がよくなったことも、少し遠い都会へ通勤できるようになることを後押ししましたね。
 

―だから「10年後はない」と。

 
もう少し大勢いたときはそんなに考えませんでしたよ。「せがれが帰ってくるだろう」と思っていたし、自分たちも子供のころからそういう感覚を植え付けられていたし。でも、実際に都会に暮らしてみたらそちらの方がいいかなと思って、子どもたちは都会に出してしまった。私も週に2回長岡に行ってます。
 

―子どもたちに戻ってこいとは?

 
言いませんね。ちゃんとした仕事について結婚もしている息子たちに帰ってこいとは絶対言わない。年を取ってから農業をするくらいならいいかな。
 

それはなぜ?

 
子育てなら中心部に住みたくなる、配偶者もいるなら無理にこいとは言えません。徐々に年齢が上がってきたら、祭りには来てみようかだとかお正月には来るとか、そういう気持ちも生まれるかもしれない。中には、帰ってきてくれるんじゃないかなんて期待もある。
 
 

でも、一番は学校です。ある程度規模がないとちゃんとした教育が難しい。自分が高校生の頃は全体で1000人もいるような大勢な中で育ったので、あんまり小さいクラスに子どもをおいていいのか、と思ってしまうんです。今の少人数化の中ではどうなのかはわからないけど。
 

―一方横根で子育てしている人もいますよね。

 
一時期子どもゼロだったのが、たまたま帰ってきた人がいたんです。そしたら「じゃあ私も」と同年代の人が帰ってきたり。都会で暮らすのも大変だし、ここなら我々みんなで子育てできる、車も免許を持っているから出してあげられる。それはつながりの中でこそできることだと思っています。
 
 

中越地震の経験が、まちの誇りにつながれば

 
―地域活性化について、県内の他のまちの方々と話をしたりするんですか?
 
平成1610月、合併の直前にちょうど中越地震があったんです。実質合併を翌年1月に延ばしてみんなで復興に取り組んだ。そのときに立ち上がった「地域復興支援制度」を通じて、魚沼市では10数人の地域復興支援員を採用しました。私はその仕事を担当していたので魚沼市以外の復興支援員の方々との交流はありましたね。ただ、今の過疎化と少子化を止めるのはそういう施策では難しかった。10年をすぎてようやく元の生活に戻ってきた感覚です。
 

―新潟で何かしらの活動に取り組んでいる方のお話を伺うと、中越地震がひとつの契機になったという方は多いように感じます。

 
そもそもこの10年は復興の過程だったと思っています。復興の過程において支援をしてくださる方とかボランティアが大勢来てくれて、自分たちが考えること以上のものを提案してくれる。中越地震は震災の先輩みたいですよね、東北や熊本の役に立つようになれているならいいなと思っています。
 

―そういう意味では、住民の方にとってはひとつの誇りにもつながっているかもしれませんね。

 
ただ終点みたいな場所ですよね、山しかなくて。こういうところに住んでいる方が、将来どうなるかっていうのはあります。地域の歴史や気候は好きなんですけど、やっぱり大変なこともある。でも誇りに思って皆さんに守ってほしいなとも思います。
 
 

インターネットの力で「子どもの声が聞こえるまち」に

 
―大学生たちと取り組むことは、村の中でどんな影響を生んでいますか?
 
自分たちのお米はおいしいと思っていたし、ある程度ルートに乗せれば売れるのはわかっていました。でも、自分たちでさらなる付加価値をつけたり、収入を上げることを個人個人がやるのは難しいというギャップがあった。それを、若い人の考え方の中で挑戦できたのはとても大きいことでした。
 
 


―彼らとの取り組みの広がりは刺激に?

 
なっていると思います。賛同してくれる方と一緒になってやっています。正直、農業を自分でやれる人が少ないんです。だから今一緒にやっている123人の方がいいなと思えばもっと広がると思います。
 

―横根でできる仕事の可能性が広がっているような…。

 
今は都会まで働きに出ている人が、遠くまでいかなくても働ける仕事が増えたらいいですよね。近くで今勤めているくらいの収入ができれば。男性でも横根に帰りたい気持ちがある人もいるみたいなので。
 

―お話を聞くと、横根の人や環境などがあったからこそ生まれた機会なのかな、とも思わされます。

 
私はそれほど珍しいとは思っていないんです。前々からやりたいと思っていたけど一人じゃどうしようもなくて、きっかけを探していたんでしょうね。でも、住んでいる人と気候、自然。これは負けないなと思っていたのも事実です。これをほかの人に評価してもらう方法がなかなか見つからなかった。
 
 


―そこに目をつけてくれた大学生たちがいた、と。

 
あと、我々はやりたかったけど上の世代の人がいると遠慮しちゃって一体感がでなかったんですよ(笑)。我々の世代でやろう!と動くことができたのもありますね。今は集落全部でできるようになりましたから。だからもう少し早くからやりたかったですね。
 

―最後に、今回の「こめのま」の大学生たちのような「よそもの」が継続して関わっていくために必要なことって何なんでしょうか。

 
集落の中で仲間を大勢増やすことですね。あともう少し、奥さん方からも理解してもらって、一緒にやることを増やしていくこととか。これからお米の袋詰め作業だとかに関わってもらおうと思っているんです。60前後の女性は忙しい、孫の世話もしないといけないから。袋詰めの作業なら体にも楽だし、通勤しなくてもいいので皆さんとやれたらいいなと思っています。
 
 

 


 
インタビューの後、渡辺区長は「こめのま」の大学生たちと一緒に、住民の方々への袋詰め作業レクチャーに取り組んでいました。永遠に続くことはできなくても10年先まで元気でいられるようにしたいという想いは、もしかするともっと先、また子どもたちの声が聞こえるときまで続いていくのでしょうか。
これからも「よそもの」と「地元」の力で生き残りに挑んでいく横根のまちと、そこに住む人々の姿を目に焼き付け、東京への帰路に着いたのでした。
 

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岡山史興

70seeds初代編集長

1984年、長崎県生まれ。ストーリーをデザインしています。