2017年の春、私は福井県で「ライスワイン」という聞き慣れない日本酒に出会った。一口飲んで「これが日本酒?なんて飲みやすくて美味しいんだろう!」と、すぐファンになってしまった私は、蔵元のことを調べ始めた。

その結果、わかったのは、この日本酒は当時22歳だった1人の大学生が造り出したということ、そして彼の兄が日本酒webサービスを運営しているということ。どうやら、各々違う方法で兄弟は「実家の酒蔵」に関わっているようだ。「なぜ長男ではなく次男が?」「日本酒のWeb?」いくつもの疑問から、これは話を聞いてみたい、と100年以上続く造り酒屋「田嶋酒造」に生まれた兄弟、田嶋孝太郎さんと、田嶋雄二郎さんに取材を申し込んだ。

取材・文 鈴木賀子

鈴木賀子
ジュエリーメーカー、広告クリエイティブ領域の製作会社、WEBコンサルティング企業を経て、2016年より70seeds編集部。アンテナを張っているジャンルは、テクノロジー・クラフト・自転車・地域創生・アートなど、好奇心の赴くまま、飛びまわり中。

伝統的な作り方は効率が悪いから変えたいけど、ニーズがあるから

 

田嶋酒造は、全国の酒蔵でもごく少数蔵が採用している古くからの製法「山廃仕込み」で日本酒を造っている。私が美味しさに感動したライスワインは、7代目としてオーナー杜氏をしている雄二郎さんの大学時代の研究成果から生まれた。

 

「僕の大学の研究は”酵母の種類でどうワインの味が変わるのか”だったんです。だから元々はワインの研究をしていたんですよ。このライスワインを造り始めたきっかけは、夏休みに暇を持て余したから(笑)。実はライスワインは昔から造られていたのですが、現在の日本酒として認可されている造り方のものではなかった。だから今の日本酒認可ルールに沿ったライスワインを造ってみようと実験をはじめたのです」

 

彼がライスワイン用の研究で、適した酵母に出会うため、希望の味にたどり着くため、おこなった試作はなんと26回。家族が味見を頼み、お墨付きをもらって実際に仕込むことになった。

 

「でも最初の3年はあまり売れなかったんですよ。造ったは良いけど、どれくらい熟成させたら飲み頃になるかがわからなかったんです(苦笑)。だから造るのをやめようと考えた時もあったんですが、おかげさまで今では仕込み量を年々増やすほど売れるようになりました」

 

日本酒は、米から作った麹と、米、水、酵母から造られる。簡単なフロー図にすると以下のようなものだ。田嶋酒造では伝統的な山廃仕込と、一般的な仕込みと複数の方法で造っている。

麹をつくるための部屋

この台いっぱいに、蒸した米を広げて麹をつくる

30kg以上もある酒造りの道具「暖気(だき)」

 

当時、20代前半の若者が、家業の新商品を担うことはとても重責だったことだろう。そんな彼が約30kg以上もある酒造りの道具を軽々と持ち上げる今の姿には、7代目の貫禄を感じる。

 

ところで、一般的に跡継ぎといえば「長男」。なぜ次男の彼が跡を継いだのだろうか。

 

「僕自身、元々“つくること”は好きだったんですよね。幼少期はよく料理を作っていたし、高校時代は趣味で家庭菜園をやっていたので、将来は農家になるんだと思ってました。子ども時代はお酒飲めないですし、魅力もわからなかったですから(笑)」

 

きっかけは高校2年のときだった。農大の醸造科に通っていた兄が「実家は継がない」と決めたことを受け、雄二郎さんは自身が農大の醸造科へ入学することを決めた。そして入った大学の研究室で、ワイン酵母に出会い、研究にのめり込んだ結果、ライスワインが誕生したのだった。

 

雄二郎さんが家業を継ぐ目的で、福井に帰ってきたのは22歳のときだった。研究室ではなく、実際の酒造りの現場に入って感じたことは「非効率でイライラする!」だった。

 

「初年度は、見習い期間だったから様子を見ていたんですが、2年目からどんどんメスを入れました。結論からいうと、効率化で結果が出せたので良かったのですが、あまりにも沢山両親や祖母の『あたりまえ』を変えすぎてしまって。最近は感覚が麻痺してしまったようで、今ではリアクションが薄くなってきました(笑)」

 

酒蔵から酒蔵へ嫁いできた祖母がショックを受けるくらいだった、という効率化のメス。そこに同僚である他の蔵人を巻き込んでいく姿にも、「日本酒の世界」らしさがあった。

 

 

「”和醸良酒”という言葉を知っていますか?字の通り、和が美味しい酒を作るという意味です。この言葉は杜氏ならみんな知っています。僕もそのとおりだと思うので、一緒に働く蔵人さんたちを積極的に、飲みに連れて行ってごちそうするんです。みんな年上だし、僕のほうが給料安いけど(笑)。そういう場で腹を割って話して楽しんで、いい酒を造れる関係性を作っていきました。2年前まで手伝ってくれていた師匠が、間を取り持ってくれていたということも大きいんですけど。そうやって5年かけて今の状況を作り上げましたね」

 

 

祖父・父は、酒造りには関わらない経営者だった。だがこれからの時代、オーナーが杜氏でないと生き残れないだろうと、家族で決めた方針を7代目は実現した。

 

「日本酒の構成割合を知っていますか?水分が80%、アルコールが15%。残りのたった5%の成分で味が変わるんです。ただその部分にみんな頭を悩ませるんですよね。今あるラインナップは造れるようになったし、最初の目標であった”杜氏になる”も達成した。だから次は他の人がやっていないような、新しいお酒にもチャレンジしていきたいですね。」

 

若い7代目は、次の目標に向けて、歩みを進めている。

 

日本酒業界の中で、同じスキルを持つ人は数%しかいないと思うから

 

一方、兄の孝太郎さんは何をしているのか。しばしば、インターネットの力で遠距離で実家の家業を手伝っている人が話題になるが、孝太郎さんもその一人と言える。孝太郎さんは、東京で企業務めの傍ら、副業で日本酒に関わるWEBサービスを運営している。

 

「生まれたときから、家の横に蔵がある生活だったので、酒に対しての思い入れはとてもあったんです。でも酒造りって、とても過酷だし、一般的な蔵だと秋から翌年の春まで、杜氏さんが泊まり込みで詰めるので、一年のうち半年が、家に他人のいる生活になるんですね。しかも休みがない。泊まりの杜氏さんたちの衣食住の世話があるので。だから小さい頃、家族で外食もできなかった記憶があります」

 

大学の醸造科で、酒造りを学びながらも、「跡は継がない」と決めた孝太郎さんだが、実家の家業については関われる方法をずっと考えていたそうだ。どうやったら、実家のお酒の売上が増えるだろうか、と。

 

「僕が通っていた東京農業大学の醸造科は日本全国の酒造りの息子娘が入学してくるんです。ちょうど通っていた2000年台前半に、焼酎ブームが起きたんですね。その時の焼酎屋の子どもたちがとても羽振りが良くて…(笑)日本酒は負けてると感じてしまったんです」

 

その強烈な思いを胸に、実家の日本酒の売り方を考えた。独学でマーケティングも勉強し、ECサイトを作ったら、今までに届かなかった層にも届けることができるのではないか、というところにたどり着いた。だけどそれだけじゃダメだ!と考えた孝太郎さん。お酒の美味しさや知名度だけではない、追加要素がなければ。彼はその答えを「ファンが付いている人」に見出す。

 

「悩む中で、イラスト絵師さんの存在を知りました。彼らは、ネットやSNS上に作品をあげていて、そのファンが多い。だから彼らに日本酒のラベルを描いていただいたら、売れる商品ができるんじゃないかと、思ったんですよね」

 

そう思いついた孝太郎さんが、次に取った行動は、イラストサイトのランキングの上から順に直接メッセージを送ることだった。行動力が凄い。今から10年以上前、2007年頃のことだ。

 

 

この萌え絵ラベルの日本酒があたり、月に数百万の売上を生み出したことは、孝太郎さんの成功体験になった。しかしながら、新卒で就職したこと、対応に工数がかかることなどから、一度サービスを閉じることとなる。

 

 

「それでも、死ぬまで日本酒には関わり続けていたいと思っていたので、社会人になって得た新しいスキルを使って、はじめたのが今のサービスです」

「SAKE.MAKE」オリジナル日本酒ラベルが発注できる。日本酒に関わる読み物コンテンツもある。

公式Instagramアカウントのフォロワーは4000人を超えている。

 

「”日本酒”ってジャンル名の中に、国の名前が入っているじゃないですか。他の国ではそのような名前のお酒はないんです。だからこそ日本でやり続ける意味があると思っています。また、同じ酒蔵の息子娘という立ち位置の人間は国内で数千人いるのですが、僕と同じようなECマーケティングのスキルをもった人は数%しかいない。だからこそ業界自体が絶滅しないように、もっと日本酒業界に貢献したいと視野が広がりましたね」

 

孝太郎さんは今、ある構想をもっている。それは、10年で70件近くもの酒蔵が倒産し、生き残った多くの酒蔵は売上を伸ばして規模を大きくしていこうとしている中、「拡大より継続」を大切にすること

 

「10年後、今より人口も減るでしょうし、消費者の母数が減る中で量をさばくより、スペシャリティを提供したほうが絶対価値があると思うんです。業界のサイズが適正サイズになっていく中で、実家のような中小規模の酒蔵が、続けていけるプラットフォームをつくれたらいいなと思っています」

 

このような結論にたどり着けたのは、彼が今までに培ってきた経験値とスキルがあってこそだろう。だが問題もある。酒蔵同士の横のつながりは、なかなか本音が話せない関係性だという。でも今後、1社だけで残っていこうというやり方では意味がない。それではきっと業界は衰退していってしまうと、孝太郎さんは語る。

 

「でも僕自身は作り手じゃない。だけど事情はわかっている。だから立ち位置的にもやりやすいんですよね。うまくつなげていきたいなと思っています」

 

 

デジタル人間な兄、アナログ人間な弟。でも根底にある思いは一緒

 

離れて暮らし、家族にも「真反対の性格だ」と言われる2人。お互いの「家業」への関わり方に対して、どう思っているのか聞いてみた。

 

 

「弟みたいに、造ることにこだわることは、僕はできない。だから、最初の1杯目、その人にとっての最初の日本酒をどうやったら飲んでもらえるか、考えて工夫することが僕のやれることだと思っています」

 

と、孝太郎さんは語る。一方、弟の雄二郎さんは以下のように思っている。

 

「僕はよく働き、よく遊ぶタイプなんですけど、兄は家にいたいタイプなんですよね。だから仲はいいけど、いっしょに働いたり、生活はできないなって思います(笑)。でも東京に行った時は、必ず兄のところに寄って、酒に関する意見を交換したりしますよ。兄の取組みで発注が入ると嬉しいです」

 

 

今まで述べてきたように、田嶋兄弟はアプローチ方法も全く違う。だけど2人には共通する思いがある。それは「活動の原動力が家族」ということ。「帰れることなら毎週実家に帰りたい」と言う孝太郎さんはこう語る。

 

 

「でも、東京にも居たいんです。情報は東京が1番集まってくるし、東京にいても、家族とつながっていられる形が今のサービスかなと思っています。正直、1円も儲かっていなくても、ぜったい酒のサービスは続けたいんですよね」

 

家族とつながっていられること。家族を喜ばせること。そんな気持ちはおばあちゃんに「帰ってこい」と言われたことが跡を継ぐきっかけになった雄二郎さんも同じだ。

 

「跡を継いだのはおばあちゃんを喜ばせたかったから、なんですよね。だから今も売れることが嬉しいんです。家族も喜んでくれるから。家族を喜ばせるために、日本酒を造っているんだな、と思います。」

 


【編集後記】

家業の跡を継ぐ。この課題に頭を悩ませたことがある人はどれくらいいるだろうか。そしてその答えを「家族を喜ばせたいから」と答える兄弟はどれくらいいるだろうか。適切な距離感と、お互いへの尊敬をもって、日本酒に関わり続けるこの兄弟を、私は応援し続けたい。6月には2017年冬に仕込んだ新作もお披露目するそうだ。ますます期待したい。

 

【関連記事】

・日本酒に革新を生む20代チームー老舗酒造の最年少社長、伝統に挑む

 

・【取材、その後】地方創生「風の人・土の人」−福井XSCHOOLの成果発表会から