「わたし、釜石に住んでみたい。」

そう思ったのは、2017年の夏の終わりのこと。徳島生まれ徳島育ち。大学進学も徳島県内で一度も徳島の外に出て暮らしたことがなかった。そんな私の、挑戦のおはなし。

2019年10月。1年間住んだ釜石を離れ、徳島に戻ってきた。

「丁度寒くなるときに来たね~」と釜石の人たちに迎え入れてもらったのが、「寒くなる前に帰れるね~」に。その言葉を聞きながら、まるまる1年経ったなあと感じながらも、不思議と帰るという実感がなく(引っ越し準備もぎりぎりまでせず)最終日を迎えた。

釜石移住、最後のコラムでは、釜石で1年を過ごしてみての思いと決意をお伝えします。

田中 美有
1996年徳島生まれ徳島育ち。2017年夏にインターンで釜石を訪れたことをきっかけに、釜石でふれた方々と飲んだ珈琲(2018年8月に「鐡珈琲」としてブランド化)に惚れ込み、2018年10月より大学休学をして、2019年秋まで釜石に滞在。

鐡珈琲に関わって

わたしが休学して釜石に住んでいたのは、釜石のコーヒーブランド「鐡珈琲(クロガネコーヒー)」のブランディングに携わるため。(詳しくは前回のコラムへ)

釜石のカフェ「Blua cielo」がもともと自家焙煎珈琲として提供していたものを、「もっとたくさんの方に届けたい。地域の味になりたい」との思いから生まれた鐡珈琲。「こうすれば地域の味になる!」なんて正解がない中で、オーナーの鮎子さんと一緒に仮説を立てては実践することを繰り返した1年。

地域のイベント出店や、いつもはお店を閉じている土日にイベントを企画。それらを通してして、より多くの方にコーヒーをお届けしようと取り組んだ。さらに、南部鉄瓶や地域で採れた農作物とのコラボレーション企画を進めて、鐡珈琲自体のアイデンティティを作ることにも挑戦した。

正直、1年取り組んだ今でも「地域の味になった!やり遂げた!」なんて感覚は、ない。でも、取り組みを進めていく中でたくさんの人に鐡珈琲を知ってもらって、飲んで美味しいと言ってもらったという、嬉しい実感はある。

「地域の味」は、そんな実感を積み重ねながら長い年月をかけていくものだと認識しながら、そこへと続く道を作ってきたのがこの1年だった。

珈琲は想いを伝える手段である

また、鐡珈琲に取り組むことによって、わたし自身のコーヒーに対する考えが深化した。

『コーヒーはツールである。』

「Blua cielo」オーナーの鮎子さんが、よくつかう言葉。何のためのツールか。鮎子さんにとって、コーヒーは「想いを伝える手段」だった。相手を想い、ほっと一息ついて欲しいという温かい気持ちがコーヒーを通じて伝わる。鮎子さんの言う「地域の味にになりたい」を掘り下げると、より多くの人たちに安心してほっと一息つける時間を作って欲しいという想いからだった。

「珈琲は想いを伝える手段である」という概念は、鮎子さんの隣で1年過ごしていく中で自然に馴染んでいった。

休学したての頃は、「大好きなコーヒーが地方でのビジネスとして成り立つのだろうか」とコーヒーを商品として見ていた。「それだけ珈琲が好きなら、将来はお店を開くの?」と聞かれても、はっきりと答えることができず曖昧に濁してきた。

けれど今は、「コーヒーは想いを伝える手段」として、わたしを表現する上で欠かせないものである、とはっきり言える。

わたしがコーヒーで伝えたい想いは2つ。

1つめは、目の前の人に笑顔になってもらいたい、という想い。単純なことだけれど、「美味しい」ってふっとゆるんだ顔を見るのが嬉しくて、コーヒーを淹れるのが大好きだとこの1年で再認識した。

2つめは、地域に受け継がれてきた遺伝子を表現するものでありたい、という想い。鐡珈琲で「地域の味」を追求した経験と、徳島にいたときからずっと抱いている「大事な地域を残したい」という想いから、この結論に至った。

伝統工芸や生活文化などの、地域に受け継がれてきた日常や当たり前。過疎化が進んで受け継ぐ人がいなくなったら、それらは消えてしまうと言われている。でも、そのような昔から受け継がれてきたものこそ、機能面や見た目でも優れているものは多い。わたしは、そういうもの達に、コーヒーを切り口にスポットライトを当てたい。そして、コーヒーの新たな楽しみ方としていろんな人に楽しんでもらうことによって、すこしでも地域の日常を残したい。

この関わり方を見出せたのは、釜石で1年間取り組んだからであり、鮎子さんのそばにいたからだ。この2つの想いを伝えるために、これからもわたしは珈琲を淹れる。釜石で生まれたこの想い。釜石に来て、鐡珈琲に関わって、本当によかったと思う。

特別な日常

この1年は、特別な日常だった。

釜石で過ごした日々。いろんな人と出会い、楽しいことが当たり前のようにあり、大好きなコーヒーのことを考え続けていた。大好きな人たちが周りにいて、大好きなことに挑戦できる環境があるって本当に特別な事だと思う。その特別が毎日続く、それが釜石の日常だった。それは最初に到着した日から、最後の出発日まで。釜石で過ごす特別な日常に慣れすぎて、離れる実感が全く湧かず、寂しさを感じることなく過ごした。

やっと、強く終わりを実感したのは釜石駅で汽車に乗るとき。

釜石で一緒に時間を過ごした大好きな人たちが見送りに来てくれていて、ああ、本当に離れるんだ、これが日常じゃなくなるんだと思うと、じんわりじんわり寂しくなった。けれど、人生の中でこんなにも大好きな人達と出会えたこと。美味しいものを一緒に囲み、楽しいことを企画する日々を過ごせたこと。本当に本当に幸せだった、と見送られながら改めて噛み締めていた。

次の挑戦

釜石を離れ、徳島で普段の大学生活に戻る中、次の挑戦を考え始めた。

お店を開くかどうか曖昧に濁してきたわたしだったけれど、結局コーヒー屋になることにした。地域のことをコーヒーをとおして伝えたい。そして笑顔になってほしい。その思いを素直に実行する方法は、コーヒー屋になって地域のものを使ったり表現したりしたコーヒーを、飲んでもらうことだと思ったから。

屋号は「tane to mame タネトマメ」という名をつけることをきめた。タネには遺伝子、という意味がある。地域に存在する遺伝子をコーヒーで伝えるという意味を込めて名付けた。

大学最後の春休みから始めたtanetomame。地元の春を表現した焙煎豆の販売からはじめた。新社会人になった今、できることから挑戦しようと思う。

釜石での挑戦を綴ったコラムは、これで最終回。でも、わたしの挑戦はまだまだ続きます。想いを伝えるために、これからもコーヒーを淹れ続けます。