「言葉は生き物である」ということは、言語学の世界ではよく語られる。確かに、流行語という概念もあるように、時代によって言葉も生まれては死に、移り変わっていくものだ。
研究者の中には、その移り変わりを嘆く人も多いように思えるけれど、一般の人間にとってはどこか遠いところの話のように思えるだろう。
わたしは、言語学者でも何でもない。ただ、言葉に傷つき、言葉に生かされて息をしてきた経験をもつ物書きとして、70年後にものこしたい「日本語」について綴っていこうと思う。
80年以上も昔の言葉に救われた17歳
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(お)さえつけていた。」
この一文で始まる小説「檸檬(梶井基次郎)」を、当時17歳だったわたしは、教室の中でただ一人、涙を堪えながら読んでいた。誰にも理解されないと思っていた重苦しい混沌と虚しさが、はじめて理解されたと思えた瞬間だったのだ。
当時のわたしを語るには、そもそもわたしの両親のことから語らなければならない。
わたしの両親は、わたしが生まれた頃にはすでにとある宗教を信仰していた。特に母親は、毎月家で勉強会を開くなど、それはそれは熱心な勉強家であり、思想家でもあった。わたしは5歳の頃には礼拝に使うお経をソラで言えるようになり、意味もわからないまま、礼拝で呪文を唱えるようになっていた。
小学生になり、次第に自分の置かれた環境を理解し始めたわたしは、一番身近である母親の語る言葉に対して違和感を覚えるようになった。
母親がわたしに言い聞かせる言葉は、いつだって「先生」の言葉であり、彼女自身の言葉ではなかった。「どうして?」と尋ねても、彼女自身が考えるそうであるべき理由はひとつも返ってこない。わたしの幸せを祈る言葉も、わたしをどれだけ愛しているかを伝える言葉も、善悪を説く言葉も、それらはいつだって借り物だった。
母親は、よく手紙を書いてくれる人だった。とても思いやりの深い、マメな人でもあったのだ。けれどその中に綴られている言葉も、すべては「先生」の教えからくるものだった。わたしはひどく虚しい気持ちで手紙を読んだ。借り物の言葉からは、母親を感じることができなかった。
わたしには兄がいて、彼は生まれつき腎臓の障害を抱えている。それを思うと、両親が神に救いを求める気持ちもよくわかる。
けれど兄もまた、借り物の言葉では救われない人間の一人だった。体調が悪くなっていくにつれて引きこもりがちになり、洗濯物の扱いや食事の味つけひとつに文句をつけて怒鳴るようになり、エスカレートしていく暴力や横暴さは、行き場のないフラストレーションをぶつけてもがいているようにも見えた。
気づけば母親は家を出て別の家に暮らすようになり、わたしは全てが馬鹿馬鹿しく思え、「生きるのも死ぬのも面倒くさいからただ息をしている」という状態で生きていた。
その頃、わたしの世界には黒い人影が現れた。
その気配を感じると、不安と焦燥で冷や汗が湧いて出る。それは多分死体だった。わたしは家のあちこちや道端で、自分にだけ見える黒い死体と付き合いながら生きていた。
「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪(いたたまらず)させるのだ。」
「何故(なぜ)だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗(のぞ)いていたりする裏通りが好きであった。」
「檸檬」に出てくるこうした言葉は、まさしく当時のわたしを表すものだった。誰に言っても理解されなかった感覚を、こうして言語化してくれている人がいる。
内から滲み出てくるようなこの言葉たちに、わたしは当時のどうしようもない孤独を託すことができたのだ。
わかってくれる人がいる。
言葉にできないどうしようもない感覚を共有してくれる人がいる。
ただ綺麗なだけの、上っ面の言葉ではなく、この重さと暗さを持つ言葉たちが、それでも確かに美しく記されているということが、わたしにとってのたったひとつの救いだった。
それまでも小説は好きだったけれど、純文学と呼ばれるこの作品に使われる言葉たちこそが、当時のわたしの感覚にはとても的確だったのだと思う。
絶滅してゆく言葉たち
言葉は、人を生かしもするし、殺しもする。
それはただ表面的な記号としての意味だけではなく、生き物として息づく「言葉」が抱く熱によるものではないかと思う。
わたしが救われた「檸檬」には、それまで見たこともないような言葉がたくさん散りばめられていた。辞書を引けば意味は出てくるけれど、日常的に目にする機会はひとつもないというような、絶滅危惧種の言葉たち。
そこから派生して調べれば調べるほど、うつくしいと感じる言葉にたくさん出会った。
けれどもそれらは「読めない漢字」「使わない言葉」として保存され、まるで標本のように飾られているだけの状態に近い。言葉は、誰かの心に触れ、何かを伝えるために咀嚼され、手垢に塗れることで初めて息をするというのに、だ。
今、「本が売れない時代」だと言われ、WEBの記事も「読みやすさ」が重視され、小説にしろビジネス書にしろ何にしろ、表現は端的に・構造はシンプルに、「わかりやすさ」を求められるということが多い。
情報が溢れかえっている中で、わざわざ面倒なものを読みたいと思う人はいないからだ。
わたしも、仕事でPRやライティングを担い、「わかりやすさ」の指標に身を置くこともある。けれど、言葉を扱う人間たちが、「楽に読まれるもの」ばかりを書くようになっていいのだろうかとふと考えることもある。
絶滅危惧種の動物や植物たちは生態系を保護されるのに、絶滅危惧種の言葉たちはそのまま葬られてしまうのだろうか。
それが自然の摂理だと言えばそこまでかもしれないけれど、わたしがあの日、80年以上も前に熱をもって綴られた言葉に救われたようにして、いつか誰かが、そんな言葉に救われることもあるのではないだろうか。
その昔、日本では農民も皆「歌」を詠んだ。たった31音の文学は、「一番伝えたいことはあえて書かず、相手に想像させる」という文学である。
そんな文化を形成していた日本人なら、本当はもっと、言葉や表現に余白をもつ楽しみを持ったっていいのではないだろうか。標本にされている言葉たちを使って、あえてわかりにくさを楽しむということだって、できるのではないのだろうか。
想像力が人を生かす
これからは、「個」の時代がやってくるといわれている。そんな時、人と人をつなぐのは一体何になるだろう。
わたしは、「言葉」は多く持つ方がいいとしみじみ思う。事実、今は仕事としても、誰かの思想を言語化するお手伝いをさせていただくという機会がとても多い。
「個」として生きていくのなら尚のこと、「誰か」の言葉を借りていては、どんなに正しくても心に届かないことがある。
わたしや兄が母の言葉に虚しさを覚えたように、借り物の言葉では、時にすれ違いや、強烈な悲しみを生んでしまうということがある。
単純に語彙力を増やせという話だと思うかもしれない。けれどわたしは、そこに「想像力」の基準もあるべきだと思っている。
かの有名な「夜と霧」の著者であり、アウシュヴィッツ収容所から生還した精神科医のヴィクトール・フランクルのエピソードにも、「過酷な現実から生き抜くための想像力」について述べたものがある。
人間は、どんなに過酷な現実を前にした時も、想像力を持ち続けることができれば生き延びることができるというものだ。
「言葉」は、無限に広がる想像力の種にもなる。
大和言葉と呼ばれる日本語は、たとえば「雨」にまつわる言葉だけでも400通り以上の表現を持っているという。かつてのわたしたち日本人は、同じ「雨」についてでも、400通り以上の切り口から捉えることができていたのだ。
こんなにも豊かな言葉をもっていたわたしたちだからこそ、今改めてそうした言葉を見直すことで、もっとゆるやかに視点を変えて物事に向き合い、視野を広げていくことができるのではないのだろうか。
そんな可能性に懸けながら、これからしばらく、日本語についての連載をさせていただこうと思う。
白鳥の歌[はくちょうのうた]
ある人が最後に作った詩歌や曲。生前最後の演奏。もとは、死に瀕した白鳥の鳴き声の意味。古来、その時、もっとも美しく鳴くと伝えられる。
(小学館「美しい日本語の辞典」、第一版・2006年、P.220)
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