四つの季節の移ろいを、わたしたち日本人は遠い昔から確かめて生きてきた。季節の変化を繊細に受け止め、自然の現象から多くを受け取り、それらを言葉に変えて纏ってきたわたしたち。
刹那を逃さずに手にとる力は、今、どこまで生き続けているのだろう。
今回は、夏の終わりにふさわしい「雨」の言葉をふたつ紹介しながら、夏が孕む生と死について、綴りたい。
【不遣の雨(やらずのあめ)】
まるで来客を帰さないためであるかのように降って来る雨。
【名残の夕立(なごりのゆうだち)】
その夏最後の夕立。夏の終わりの夕立。
(引用:小学館「美しい日本語の辞典」P307,P311)
夏の青空に「死」を想起して
今年はどうも、抜けるように青い空が少ない夏だった。
玄関扉を開けて、いつの間にか終わりかけている季節の気配に、なんとなくスッキリしない心地を抱く。猛暑が過ぎるのは喜ばしい。けれど、わたしのよく知っている夏が、今年は顔を出さずに過ぎ去っていくような気がした。
わたしにとって、夏の青空は「死」を連想させるものだった。照りつける太陽の熱をいっぱいに吸い込んだアスファルトは、残照めいた夏の匂いを夕刻に放つ。たくさんの汗をかいた後には、気怠さとともに、確かな高揚感の余韻が胸に残る。
祭り。花火。海。朝のラジオ体操。向日葵。
夏という季節は、明るく賑やかなもので構成される分、どうしたって終わりの静けさが際立っていく。ミンミンゼミやクマゼミの声はいつの間にかヒグラシに変わって、朝にはニイニイゼミが、まだ誰も起きていないような暁に寂寂とその声を響かせる。そのどれもが全く違う鳴き方をするのだ。28年間生きてきて、わたしはついこの間行ったキャンプ場で初めて、ニイニイゼミの声をきちんと聞いた。
夏は、他の季節に比べて、朝から夜までに多くの「移ろい」を感じやすい季節かもしれない。移ろいには、必ず始まりと終わりがある。その短い連鎖が、生と死を想わせる要因なのだろうか。
抜けるような青は、今を懸命に生きる命を明確に照らす。目を逸らすことを許さない、生命力の塊のような光が夏には満ちている。
だから、わたしは居た堪れなくなった。遠くどこまでも続くような青に、無力で中途半端な自分の存在を浮き彫りにされているような気がして。
夏が来るたびに、あの強すぎる光と青を見るたびに、わたしはどの季節よりも身近に「死」を想起した。もっと短く、早く、苛烈で懸命な生と死を求められているような気になって、同時に、広い青の下でどこにもいけない自分の小ささも、叩きつけられるような気になっていた。
よるべなさと共にあった頃
高校時代、軽音楽部だったわたしは夏休みも毎日部活に通っていた。
軽音というとチャラチャラしたイメージがあるかもしれないけれど、わたしたちはどの部よりも早く学校に行って練習を始め、筋トレから基礎練習をおこない、全員が汗だくになりながらバンド練をして、そしてどの部活よりも遅い時間に学校を出た。
あの頃のわたしたちは、ひどく曖昧な存在で、誰もが自分の輪郭を確かめ合うようにして互いに関わり、生きていた。
音楽がないと死んでしまうようなメンバーばかりだった。それも、ただ死ぬほど音楽が好きだとか、そういう明るい理由だけでは決してなかった。
みんな、居場所を探していた。
よるべなさを抱えながら、「自分」という人間や、周囲のどうしようもない混沌に折り合いをつけて、どうにか生きようとしていた。
音楽室前の廊下がみんなの拠り所で、その奥の窓から覗くプールと空が、わたしの高校時代のすべてだった。
死はいつも光と手を組んで存在している。
高校に入ってすぐ、仲良くなった女の子がいた。華奢で、少し人見知りで、気が強いのに繊細な女の子だった。バス通学をしていたわたしを後ろに乗せてぐいぐいと自転車を漕ぐ細い髪からは、いつも清潔なシャンプーの香りがしていた。
彼女は、大学を卒業する前に亡くなった。詳しいことは誰にも知らされないまま、突然だったこともあって、自殺なんじゃないかという噂が耳に入った。
わたしは、彼女と一度だけ、大学生になった後にも会ったことがある。痛いくらいに眩しい太陽が照りつける快晴の夏の日、彼女は「秘密の恋をしている」ということを打ち明けてくれた。少し疲れた様子もありながら、それでもとても幸せそうだった。
高校時代、複雑な家庭事情を抱えて泣く彼女をよく慰めた。夜遅くまでコンビニの前で喋って、夏にはアイスを、冬には肉まんを分け合った。
少なくとも三年間、どの季節も一緒に過ごしていたはずなのに、なぜか私はいつも彼女といた夏を思い出すのだ。
夕立に降られて、ずぶ濡れになるのが可笑しくて大笑いしながら自転車で駆け抜けた坂道。
新しい味が出るたびに、「一口ちょうだい」とねだられたリプトンの紙パック。
彼女が持っていた、乳白色や桜色のタオル。たまに持ってもらった、わたしのソーダ色のリュック。彼女の、さらさらとした、栗色の髪。
目が眩むような明るい世界を、わたしたちはそれぞれの孤独を抱えながら、ふたりぼっちで駆け抜けていた。夏の日差しと青空に「死にたくなる」と話したら、彼女は「ちょっとわかる」と言った。わたしたちは多分、影の部分に同じ匂いを感じて一緒にいたのだと思う。
彼女が漕ぐ自転車の後ろに座りながら仰ぐ空の色は、わたしの中ではずっと「青」だ。彼女の死は周囲に知らされないままで、きっとSNS上ではまだ生きているようにも見えるだろう。友人の中には、彼女の死をいまだに知らない人も多い。
もう十年が経った。あの頃わたしの身体を構成していた細胞たちはすべてが死んで、もうこの世から消えてしまった。
著作で描いた夏の青空、「死」と「再生」。
昨年11月、二泊三日で小説を作るNovel Jam2018秋というイベントに参加し、「リトルホーム、ラストサマー」という短編小説を書いた。審査員だった花田菜々子さんから「きちんと人間が描けている」といった評を受け、花田菜々子賞とチーム特別賞を受賞させていただき、文学Youtuberのベルさんとはその後のイベントで拙著にまつわるテーマのトークセッションをさせていただくこともできた。
「リトルホーム、ラストサマー」は、高校生の少女を中心に、「家族とは家族になれなかった」人たちの生きづらさとよるべなさ、それでも自分の居場所を模索し成長するひと夏を描いた短い作品だ。
NovelJamというイベントは少々特殊で、初日に初対面の参加者同士でチームを組み、その場でお題が発表され、そこからプロットを考え最終日の朝までに作品を仕上げていく。合間に基調講演の時間もあったり、入稿作業や表紙のデザインについての話し合いをしたり、実質執筆時間は24時間から36時間未満といったところだろうか。
そんな、「じっくり考えている場合じゃない」状況に身を置いて、ほとんどまともに小説を書いたこともなかったわたしは、「自分の心が動き出すもの」に懸けるほかなかった。
何を書こうと考えたとき、わたしは高校時代に仰いでいた夏の青空を思い出した。鮮やかな光と色。照りつける太陽による光と影のコントラストが、わたしの存在の無力さを際立たせているように思えて仕方がなかったあの頃。
夏の青空は、死と再生のモチーフだ。
どうしようもなく虚しくて鮮やかな、暗澹たる眩い夏を書きたいと思った。
夏を惜しむ名残の夕立
夏は青空も多ければ、激しい雨も多い季節だ。台風が発生しやすい時期でもあって、そうした空模様の変化もまた、この季節にあるコントラストを演出するひとつになっているのかもしれない。
日本は世界的に見ても雨の多い国だというデータがある。そのせいもあってか、一説によれば「雨」を言い表すだけでも400をこえる表現があると聞く。
その夏の終わりに、夏を惜しむかのように降る夕立を、昔の人たちは「名残の夕立」と呼んだ。
突然降ってきた雨に濡れないように慌てて屋根の下へ入りながら、人々は眩い夏を惜しんだのだろうか。風鈴の音と雨音が混ざり、湿り気を帯びた夏の匂いがたちこめる。お盆の間にだけ帰ってくるとする魂たちのことを、雨宿りの時間に想ったりもしていたのかもしれない。
この時期にパラパラと急な雨音が聞こえると、わたしは思わずカーテンを開けて外を眺めてしまう。曇天と凄雨を眺めながら、あの頃、目にしていた青空と、自転車を漕ぐ彼女の背中を思い出す。
今年も、夏が終わろうとしている。
暑いのは苦手だけれど、あともう少しだけ、名残の夕立に身を寄せて、青い空を想いたい。
|掌編小説|不遣の雨は名残の夕立
真っ青な空の下、赤い傘がくるりと回る。彼女は、晴れでも曇りでも、もちろん大雨でも、毎日傘をさしていた。
ばかみたいだと思う。
それでも、あの青白い肌から幽かに夏草の匂いがするということを知ってしまった僕には、もう彼女に逆らう権利など与えられてはいなかった。彼女の思うがまま、彼女の全てのために存在していたいとさえ思う。僕たちはそういう関係だった。
白磁の指が、赤いプラスチックの柄に添えられている。運ばれてきた涼風が、彼女の頬にひとふさ落ちる、細い髪を揺らしていた。
「ねぇ」
その薄い唇が、僕の名前を呼ぶのを期待した。彼女の唇はいつ見ても桜色をして、その可憐な冷たさは手首に透ける静脈なんかを思わせる。
彼女が僕を見る。ぽつりと一滴、雨粒が落ちる。夏の夕立は疾い。
彼女の持つ赤い傘にも、天泣が落ちては弾けた。それは何かに似ていて、僕はきっと、その意味を知っているんだと、そう思った。
「私、この雨があがったら、行くね」
「……え?」
僕はただ呆然と、赤い傘をさす彼女を見つめた。濡羽の色をした瞳が僕を見る。それはなんだか、この世にある最も哀しい宝石のようにも見えた。
彼女がほんの少しだけ微笑った。あの日僕が見た、最後の姿と同じように。
「来年はもう、来なくても大丈夫。忘れないでいてくれるのは嬉しいけどね。……ちゃんと生きて、幸せになりなよ」
夏草の匂いが濃くなった。
夏を惜しむようにざあざあと降る雨は、蝉の声も残してアスファルトを濡らす。彼女の睫毛に震える水滴を拭ってやりたいと思った。けれど、あの頃と変わってしまった僕では、もう彼女に触れることはできないのかもしれなかった。
赤い傘は、君と僕をつなぐたったひとつの兆しだった。死者の魂が還る四日の間だけ、この場所に、二人をつなぐもの。
雨に涙を溶かそうとして仰いだ空は、まだ、抜けるように青かった。