空の密度が高くなり、冴え冴えとした月が照る。

この季節になると、毎年、「誰かを愛する」ということについて考えるようになる。

大切な人たちと過ごす行事ごとが目白押しの季節だから、だろうか。山や木々が、その色を刻々と変えるから、だろうか。

すぐそこに迫る、無彩色の世界の手前。一度立ち止まり考えるのは、「愛」について。

中西 須瑞化
言葉に救われて生きてきた、PRもする文筆家。「生きる選択肢を示す」を軸に、フリーランスで活動中。新卒3ヶ月でフリーランスになったことや自身の生育環境なども踏まえ、「生きづらさ」「家族」をテーマにしたイベントや作品制作等も実施。「恋に落ちるほど好きになった相手としか仕事をしない」社会課題解決に特化したPR会社morning after cutting my hair,Inc.発起人の一人。2018年より、藤宮ニア名義で小説執筆活動もおこなう。家族と居場所を題材にした青春短編小説『リトルホーム、ラストサマー(NovelJam2018秋・花田菜々子賞受賞作品)』著者。

理ない仲(わりないなか)
非常に親密な仲。道理では計り知れないほど親密である。分別を超えて、ひと通りでなく親しい。
笑う
花のつぼみが開くさまや、果実が熟して裂け開くさまをいう。えむ。
(引用:小学館「美しい日本語の辞典」P.290)

「かなし」の愛をもつ日本

日本語には、元来「愛」というものが無かったという説がある。

無論、誰かをいとしく思う心はあったし、その感情をあらわす言葉もあった。ただ、それらを「愛」として表現するのは、西洋文化の流入以降、西洋文学の翻訳の際にさだめられたものであろうというのが現在の通説らしい。

それまでの日本人は、「愛」をさまざまな言葉をもって表現していた。恋ふ、慕ふ、焦がる、慈しむ……さらに、「愛し」と書いて「かなし」と読む言葉も、「愛」のひとつだった。

「愛(かな)し」は、相手をいとおしい、かわいいと思う気持ちや、守りたいという思いを抱くさまを表すという。

つらく切ないことを表す、「哀し」と読みが同じだ。音読みの「アイ」でさえ、この二語は同じ音をもって紡がれている。

わたしは日本語学者ではないので、これらの言葉の成り立ちといった部分を深く追求してここに記すつもりはない。ただ、音のあり方として、これらの二語を同じものとした日本人の感性には頭が下がる思いがある。

切実でうつくしい二語の、その奥に内在する共通性を見出していたのだとしたら、なんて注意深く鋭い感性なのだろう。

「愛には哀しみが含まれている」

そんな感覚は、訳も分からず、わたしに「日本人らしさ」を感じさせる。一体何が「日本人らしい」のかはよくわからない。西洋の哲学者が言っていそうな言葉だといわれれば、確かにそうかもしれないとも思う。

ただ、愛には確かに、哀しみが含まれている。

それを言葉にせずとも理解していたのが、日本人というものであったのかもしれないと、そう根拠もなく感じてしまう。それは、たとえば「和色」と呼ばれる日本古来の色がもつような、鮮やかさだけを野放しにはしない色彩感覚とも近しい何かなのかもしれない。

欧米文化の多くに対して抱く、ポップでカラフルな「無条件のハピネス(多くの悲しみがあるからこそ、ハッピーはハッピーとして押し通す意思と強さ)」のようなものは、やはりどこか、日本人にあてはめると痛々しさがでる気がする。もっと丁寧に正確に表現するならば、“今はまだ”、そう感じてしまうことが多い。

文化や国民性というものも、常に変化し続けていく。今の日本は変化の途中で、もしかすると少し先の未来にはもう、「無条件のハピネス」が日本にも浸透しきっている状態になっているのかもしれないなと、最近の世の中を見ていて思うこともある。

「何か」が「別の何か」に姿を変えようとする時は、大抵痛みが伴うものだ。成長痛のこともあれば、磨り減った軟骨のように、衰退することで生じるものもあるだろう。今はまだ、「そうなろう」として明るく振舞っているような痛々しさが透けて見えることが多い。けれどいつか、その痛々しさは消えて、「そうである」状態になるのかもしれない。

その時、更新される「日本人らしさ」は、一体どこへ向かうのだろう。

もしくは今そう感じてしまうのも、単純にわたし個人のもつ「日本人らしさ」についての感覚が原因だろうか。

誰かのことを「愛し」く思うとき、胸の真ん中が詰まるような感覚になることがある。

全身は力が抜けていて穏やかなのに、その部分だけが不意に重くなる。「愛し」て幸せであると感じるほどに、目の奥が熱くなる。鼻がツンとする。哀しみの気配を、すぐそばに感じてしまう。

諸行無常という仏教の言葉があるけれど、四季の移ろいなどは顕著にこれを可視化する。その中に身を置き暮らしてきた日本人は、諸行無常の感覚が我が身に深く染み付きやすかったのだろうか。

永遠など無いと知りながら愛するとき、わたしたちは一体何に希望を抱くのだろう。

 

分別を超えた先に愛を見る

今回取り上げた「理(わり)ない仲」という言葉のおもしろみは、「道理では計り知れない」「分別を超えた」という部分にあると思う。

それは、単に「親しい仲」「親密な仲」では済まさない意味を持っているということだ。

時に倫理や生物的本能をこえてまで、人は人を愛する。

江戸時代の日本では、いわゆる不倫関係にあたる「不義密通」となる行為は、発覚と同時に死罪となるものだったという。「理ない仲」でもあったであろうそれは、お互いがお互いの幸福の最頂点を信じ合うことでしか、成り立たなかった“アイ”なのかもしれない。

命懸けとまではいかないにしろ、不倫や身分違いの恋、さらには同性愛やポリアモリー的な愛の形さえ、「何か」を超えて生まれる愛には変わりないだろう。大なり小なり、いろいろなものを超えて、わたしたちは誰かを愛している。

カニバリズムと呼ばれる人肉嗜食の嗜好さえ、わたしは「愛し」のひとつの形なのかもしれないと思えてしまう。社会的行為としての意味を持たない人肉嗜食の彼ら彼女らは「異常な凶悪犯」「サイコパス」として扱われることが多いけれど、その理解で片付けてしまっていいのかは、わたしにはわからない。彼ら彼女らのもつ強烈なその特徴の奥には、どうしたって「かなし」みの気配があるように思えてならないのだ。

わたしに、「食べることが究極の愛だ」と語った知人は猟師だった。

彼女は、自分の手で撃ち殺して解体した生き物の肉を、とても愛おしそうに口に運んでいた。狩猟や解体の現場を初めて見たわたしにとって、その姿は生々しく鮮やかな、強烈な印象を与えた。

彼女は、人一倍丁寧に生き物と向き合い、生命と対峙する。奪ったものの重みをその手で感じながら、大きな自然の循環に手を合わせ、その中に“寄せてもらい”ながら、息をしている。

彼女には、余計なものを含まない愛とうつくしさがある、と思った。

できる限り苦しませずに、それでいて肉の鮮度を保っておいしく食べ切ることができるようにと、仕留め方にも気を配る。血抜きも解体も、素早く丁寧におこなえるように鍛錬を積む。山から、海から、川から、色々なところから“いただいている”という感覚を、彼女はきっと悉にその身に宿していた。

わたしよりもずっとずっと、彼女は生と死に近い場所にいる。それは、生き物としてとてもうつくしく、気高い姿に見えた。

もちろん、彼女の行為はカニバリズムとは紐づかないけれど、「かなし」みは確かにそこにもあったように思う。塩だけで味をつけた肉をいただきながら、動物を無邪気に愛でるときの彼女の笑顔を思い出す。おいしい肉に対するみんなの感想を聞く彼女の笑みに、やっぱり、胸の真ん中はぐっと絞られた。

「かなし」みの覚悟が愛ならば

愛とは、結局のところ覚悟なのかもしれない。

胸の引き攣りを自覚しながら、息をし続けていく覚悟。永遠などないと理解しながら、目の前の存在と付き合っていく覚悟。「かなし」みを取りこぼさず、自分の手で掬い上げて味わっていくという覚悟。

それは時に愚かにも見えることがあるかもしれない。道理では計り知れず、分別を超えたものになることもあるかもしれない。

明るいばかりではない。それでも、人は愛することを必要として、誰かと笑いあいたいと願う。何百年、何千年も昔の時代から、きっと多分、この先も。

どんなにいとおしく守りたいと思っても、別れはくる。

それを知った上でも、わたしたちは誰かを愛することができる存在なのだ。「かなし」みを宿して生きていくことを、日本語はきっと今にも受け継いでくれている。

愛は、夢のように明るく幸福なばかりのものではないだろう。

だけどわたしたちは、「かなし」みの覚悟を持つことができるはず。果実が熟して裂け開き、ほころぶのを誰も止めることなどはできないように、それは確かに、笑みへと繋がる愛でもあるはずだ。

人を愛そう、と思う。

そこにある「かなし」みさえも、受け取る覚悟をもって。

|掌編小説|流星柘榴

「赤い星は、もうすぐ死んじゃう星なんだってさ」

停車した車のエンジンだけが、地味な振動を響かせている午前一時。誰もいないということだけがわかるだだっ広い駐車場は、東京の舗装されたそれと違って剥き出しの地面にロープ的なものが埋め込まれているだけの場所だった。ブーティのかかとが、不慣れな土の感触に戸惑いながら私の体重を支えている。冷たい風が内臓の芯まで冷やす。遠いところに来たんだ、と思った。

「星なんて詳しかったっけ?」

コートの袖に指先を隠しながら聞く。背中を預けているボンネットがじんわりとあたたかい。見上げる空はプラネタリウムみたいに星が光っているのに、隣の彼の顔は暗くてよく見えなかった。

「いや。でも、こっち来たら自然と覚える」

ふぅん、と思った。けれど、言えなかった。

彼にとっての「こっち」は東京だったはずなのに、いつの間にかこの田舎町が「こっち」になっている。あの頃は確かに、彼にとっての「こっち」は私の隣だったはずなのに。

いつもより2cm高いヒールも、細く揺れるピアスも、タータンチェックのスカートも、彼の隣にあったもののはずなのに、今はどれもこれもが居心地悪そうにこの場所にいた。暗闇に紛れて見えやしないガーネットのネイルを、コートの袖の中で撫でる。ジェルネイルのぷっくりとした艶に、なんだか少し安堵した。

もともと、彼との関係に名前は無かった。何とでも呼べるような気もしたし、何にもあてはまらないような気もしていた。一緒にいて楽しいし居心地も良かったけれど、友達に「彼氏なの?」と聞かれると少し困った。頷いてしまえばそうなる気もして、けれどそれは終わりへのカウントダウンになるような予感もあって、私は「友達以上恋人未満」なんてふざけた言葉を使ったりもした。「セフレじゃん」ってツッコまれて、別にそれでもいいんだけどと考えてみて、やっぱりそうじゃないんだよなという感覚になることの繰り返し。

彼からは何度か「彼女って紹介してもいい?」と聞かれたけれど、私はそれを良しとはしなかった。だって、私たちは交際を申し込みあったカップルというわけじゃない。「彼女」と認定されて「彼女」と呼んでもらうためにたくさんの努力をしてきた彼女たちを知っているだけに、同じラベルを貼られてそこに並ぶことには抵抗感と申し訳なさがあった。それに、彼氏のどんなところが好きだとか、どんな喧嘩をしただとか、その手の話に「彼女」として上手く乗っていける自信もない。

そんな名前の無い関係が続いて半年くらいが経った頃、二人でよく行っていた喫茶店でいつものようにお茶をしている時に、彼が言った。

「俺、今度見合いするわ。実家の畑、そろそろちゃんとしないといけないし」
「畑?」
「あれ、言ってなかったっけ。俺の実家が」

お待たせいたしました、という明るい声で、ウエイトレスさんがケーキと紅茶を運んでくる。期間限定の柘榴ムースが、真っ白なお皿の上で鮮やかに佇んでいる。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「はい」
「ごゆっくりどうぞ」

彼の前にはブレンドコーヒーと、シュガーポットとミルクピッチャー。そういえばこの人がどんな風にコーヒーを飲むのかを、私はこれまでちゃんと見ようとしたことさえなかった気がする。

「紅茶だとポットサービスなの、何の差なんだろ」

彼が何気なく言いながらカップを持ち上げる。

「なんで」
「ん?」

返されたくぐもった音に、何となく、言いかけた言葉を飲み込む。まだ砂時計が落ちきっていないけれど、待ちきれないというようにポットをくるくるまわして、少しだけ紅茶を注いだ。色が無い。

「なんでコーヒーにしたの?」

私の問いかけに、ほんの一口だけ飲んだカップを置きながら、彼が緩やかに笑う。

「選ぶの面倒だから、いっつもブレンドにしちゃうだけかも」

あんまり考えたことなかったな。そう言いながら、彼はコーヒーにミルクを注いだ。気まぐれなのか、いつもこうやってコーヒーを飲む人なのか、私にはわからない。

恋愛なんて、大抵ロクでもないことになる。

この歳になれば結婚というゴールへ向けて進むカップルがほとんどで、そのためだけにパートナーを選ぼうとする人だって少なくない。授かり婚だってすっかり当たり前になって、「子どもが欲しくて結婚するんだから、授からないのに結婚したって意味がない」と言い切る友達だっている。

みんな、何かを欲して動いていた。けれど私は、何を欲していいのかが、いまだによくわからない。

「あ、ほら見て。あれ、オリオン座のベテルギウス」

隣で赤い星を指差す左手の、なるべく指先だけに意識を注いで目を凝らす。オリオン座くらいなら、星を知らない私にだってわかった。

「あれ、もうすぐ落ちちゃうんじゃないかって言われてるらしいよ」
「そうなの?」

感心するような声を出してみながら、彼の左手が上着のポケットへ戻っていくのを気配で感じる。何度も指を絡めた手のはずなのに、今はもう、私が握っていい手ではなくなっている。

ベテルギウスがいなくなっても、きっとほとんどの人はオリオン座を見つけられるだろう。オリオン座やベテルギウスなんて知らなくても、星空は多分、多くの人にとって綺麗なままだろう。

けれど、どうしてもベテルギウスが見たくなった時に、私たちは初めて、もう見られないということを理解するんだ。あの赤く頼りなく、それでもあたたかな光を見たいと本当に願った時に、私たちは初めて喪失を理解する。

「あのさ」
「ん?」
「例えばわたしがさ」

私がもし、あなたの奥さんになりたいと言っていたら。

私がもし、あなたの彼女になりたいと言っていたら。

私がもし、あなたを好きだと伝えていたら。

そうしたらあなたは、「選ぶのが面倒だから」、私を選んでくれていたり、したんだろうか

黙ってしまった私の言葉を待っていた彼が、空気が重く固まってしまう前に口を開く。こういう、無理なく空気を混ぜられるところも好きだった。きっと彼が焼くスポンジは上手に空気を含んで膨らんで、誰かをふわふわの幸せでやさしく包むんだ。そういう男だった。器用で、呑気で、出世のできないお人好し。

「星が死ぬ時の音は、ファらしいよ」

彼の口から出る星の話が、本当は誰から聞いたものなのかなんてわかりきっている。だけど、その豆知識って誰から教わったの、なんて、絶対に絶対に聞いてなんかやらない。

「ふぅん」って半端に相槌を打つ振りをして、鼻をすすった。彼がマフラーを外して私にかける。あの頃とは違う、洗剤の香りがした。なんて不毛で愚かなんだろう。足元がぐらつく。

「……帰ろうよ、一緒に」
「え?」
「もう帰ろうって言ったの、寒いから」

ねぇ。一度くらい、同じ家に帰っておけばよかったよね、私たち。

今日のために塗ったネイルの指先で彼の袖を引こうか。寒いからって、彼のポケットに自分の手を潜り込ませてしまおうか。そんなことを想像して、その想像を赤く塗りつぶす。その繰り返し。なんて愚かで、なんて無意味な結びつきなんだろう。

私の方がずっと前に、ずっと長く一緒にいたのにな。たった一回のお見合いなんかで、住んでいた場所の距離なんかで、彼の結婚相手になれてしまった彼女が憎かった。彼のマフラーに生活の香りを残せる彼女が、その愛が、この場所に馴染んでいることが、すべてが現実で、私はただ圧倒的な敗者として、今この場所にいた。

「帰ろうか」と言われる空気は決して重くはない。ここにいる自分が滑稽で、それでも幸せで、彼と彼女のあたたかな生活の匂いを吸い込んで、小さく笑う。

特別な関係だと思っていた頃のあの愛が、今も私をじりじりと灼いている。柘榴石の流星は、私の愚かな願いも灼き尽くしてくれるだろうか。

「柘榴のムース、また食べたいな」

呟いた私に、「何だよ急に」って笑う彼。もしかするとこの人は、あの日のことをもう覚えていないのかもしれないと思った。

『愚かしさ』と『結合』の言葉を持つ、赤い宝石みたいな綺麗な果実。あの日、控えめな甘さと仄かな渋さを噛みながら、私は確かに笑っていた。飲み下す最後の一口まで、普段通りのフォークの運びで。