みなさんは海に、どのようなイメージを、どのような思いを抱いているだろうか?

ある人は親密さを、またある人は生業の場に対する敬意かもしれない。

良いイメージを抱く人が多い中で、東日本大震災による大津波は、自然の脅威としての海の一面を、私たちにまざまざと見せつけた。だからこそ、復興に際し、東北地方沿岸部に約13mもの巨大な防潮堤を建てられたのは、一見合理的な判断に見える。親密さを持つ海と防潮堤で遮られたとしても、再び来るであろうその脅威に備えることの方が重要だと思えるからだ。

筆者自身、防波堤を建てるのは仕方がないことだと考えていた。しかし、その認識を大きく変えたのが、今回インタビューをさせていただいた齊藤春貴さんの語りだった。

齊藤さんは岩手県の陸前高田市広田町という、宮城県との県境・沿岸部に位置する地域の出身で、やはり3.11の津波で大きな被害を被った。それでも海への「愛着」はずっと続いているという。

「防波堤が建てられていくのを見ていたら、自分の周りが城壁に囲まれていくようで、思い出深い光景が上書きされていくような感覚だった」

齊藤さんの語りからは、防潮堤がただ私たちを災害から守る「勇ましい」存在ではないことが見えてきた。

三瓶 湧大
福島浜通りに生まれ、東日本大震災を経験する。大学進学をきっかけに上京し、大学の中で復興支援団体に所属するなどして、震災自体や人と人とのかかわりについて思いを巡らせてきた。昨年からは原爆体験について学びはじめ、「非被爆者への継承」などに関心を持つようになる。震災や原爆と言った「想像力を超えてくるような存在たち」は私たちが「生きること」にどのように影響を与えてくるのか。他者の経験を伺う事を通して、文章を作り上げていく事を通して、考え続けていく。

齊藤春貴さんにとっての「海」という存在

津波というのは、長い歴史のなかで東北地方沿岸部を何度も襲っている。

海で仕事をする人が多かった齊藤さんの住むまちでは、津波=海難であるという意識のもと、海と死がある程度結びつく「独特の考え方」が発達してきたのだという。

それはつまり、自然に起因する死を「管理できるリスク」とし、その回答として防潮堤を建てるような思考ではなく、海で起こる死をある程度「受容する」思考や伝統、社会システムができあがっているということだ。

例えば、「オガミサマ」という死者の霊を自らに憑依させて、現世とあの世をつなげる巫女さん(「イタコ」のような役割を持つ方々)が、齊藤さんのまちでは大切な役割を担っていたり、風の音を聞いて「ああ、亡くなったおとうさんが帰ってきた」と認識し、それを共有するということが、ごくあたりまえだったりする。ここでは、外の人間の想像を超えて、海と死、そして人びとが深く結びついているのである。

その「独特さ」に齊藤さんが気がついたのは、大学進学に際して宮城県仙台市で暮らし始めたときだという。仙台市も海に面する地域はあるのだが、大学が位置している市内は海から離れており、津波による直接的な被害は少なかった。

「仙台市内で生活を送っている人たちが持つ、『津波の恐怖や震災から何を学んだか』というイメージが自分自身のものとちょっと離れすぎてて。それがまずびっくりして、衝撃が大きかった」

齊藤さんにとって「あたりまえ」だった、海で起こる死をある程度「受容する」社会システムが、実は「独特」だったという気づき。それから齊藤さんは、「そういう理解を通して、より一層、自分のまちに愛着を持った」と言い、大学で自分のまちと震災を結び付けて研究をするようになったのだという。

「遺伝子レベルで、海とともに生きてる」

人々と海・死の結びつきだけではなく、生活においても人と海は近くにあるのだと齊藤さんは話す。齊藤さんの語りで印象に残ったエピソードとして「ウニの公欠」がある。

「中学生の時、年に何回か海にウニの解禁日があって、船を持ってる家は朝ウニ獲りをやるから、浜に降りるわけだ。それで“ウニの公欠”が認められた。内陸から転勤してきた先生がまず最初に驚いて、『出席番号〇番の子の“ウニ休み”ってのは何ですか?』てなるわけさ」

これは、まちの人々と海が実生活のなかで深く結びついているからこそのエピソードである。

それは、震災で海の恐ろしさを目の当たりにした後でも切り離されることはなかった。むしろ、友だちと「海行って花火やろうぜ」と言い合い、段々と生活をもとに戻そうという流れになっていったほど、海との結びつきは強かったという。

筆者もかつて、海の近くに住んでいたが、これほどまでの結びつきはなく、齊藤さんの海に関する語りにはただただ驚かされるばかりであった。

このほかにも、齊藤さんは、「海への感謝」を示す地域行事や伝統芸能などを通して、海は地域をも結んでいたと話す。

「遺伝子レベルで、海とともに生きてる」

齊藤さんの言葉から、まさに人の内面の深くまで「海」という存在が根付いているのだなと強く伝わってきた。

「ツナガリ」を絶ち切る防潮堤

多くの位相で海と人びとが結びついていることが見えてきたわけだが、そのようなまちに冒頭で述べた約13ⅿの防潮堤が建ったとしたら、どうだろうか。

今まで見えていた海が覆い隠される違和感。自然豊かな地に巨大な人造物が存在する圧迫感。防潮堤は物理的にだけでなく、精神的なレベルで海と人の「ツナガリ」を絶ち切る。

震災以前にはなかったモノが、震災後の空間に覆いかぶさるということ。それを齊藤さんさんは「故郷の風景が破壊される、いわば第二の被災だ」と語った。時計の針が進み、回復への気運も高まるなかに現れた防潮堤という存在は、人々の心に「不思議なほどの寂寥感」をもたらしたのだ。

齊藤さんは、先に「オガミサマ」の例を挙げた、あの世とこの世とのツナガリを「縦のツナガリ」と表現した。一方で、地域のなかのツナガリを「横のツナガリ」と表現し、齊藤さんの住むまちは「縦と横のツナガリが交差する、交差点みたいなまち」なのだ、と語った。海とのツナガリが絶たれることは、これら縦と横のツナガリが絶たれてしまうことも意味するだろう。

「結局、縦と横と、海ともツナガッてるんだなって思うわけさ。そのツナガリを遮断するのが防潮堤であって。俺らは今までずっとずっと海とツナガって生きてこれたのに、生活感や価値観を否定されたような違和感はやっぱり、あるよね」

無論、備えることの重要性や「防潮堤をつくる行政の気持ちもわかる」と齊藤さんは話す。それでも簡単に「ツナガリ」を絶ち切ってはならないのだという齊藤さんの思いが、この語りからは強く見えてくる。

防潮堤をつくるのは、災害から生活を守るためである。しかし、防潮堤をつくることでその生活に影が落とされては、本末転倒だといえる。ここでは、「人びとの生活」と「リスク」という本来同じ天秤にかけられるべきでないものが、比較されてしまっているのだ。

それはきわめて両義的であるからこそ、人々の心に形容し難い空虚感をもたらすのである。

ツナガリと共感から見えてくる平和

ややもすると私たちは、まちづくりが完了し、衣食住の再建が終われば「復興が完了した」と考えてしまうかもしれない。しかし、「ツナガリ」から見える生活の重要性に触れたとき、決して「復興が完了した」とは簡単には言うことができないことがわかる。目に見える物質的な損失だけでは、測れないものが多くあるのだ。

「齊藤さんにとって復興とは何ですか?」という質問に、齊藤さんは次のように答える。

「今まで被災地は生活再建プロセスをたどってきて、それに関する調査は行われてきた。けれども、例えばまちの大きな祭りを昔のように行うことはまだ難しい。そういう日常からちょっと離れたことを『じゃあもう一回やるかあ』となって、心に余力が持てる状態にもなったら、復興なのかなって」

齊藤さんのまちでは地域行事などを通して、住民のツナガリが生まれていた。しかし、震災後の被害や心情が異なる以上、昔のように祭りを住民みんなで行うことは未だ叶っていないという。

そういった状況が落ち着いて、ただ目の前の状況だけでなく「ずうっと先の未来をどうお考えですかみたいなことを、しっかりとまとめるような機会」がつくれるほどまちが再興することが、齊藤さんにとっての「復興」なのだ。

そして復興に連関して齊藤さんは、自身にとっての「平和」について、以下のように語る。

「あのパニックになりそうな時期でも、日常の何気ないことであははと笑い合えることはあった。そういうことが振り返られる日々が来たら、『平和』だし、もっと行けば『復興』。そこには住民の間での共感っていうものがある。「笑い合う」ことに意識の共感が見えるわけだ。未だ厳しい状況は続いているのに「笑い合う」とは何事か、って批判もあるかもしれないけど、これから被災地を背負ってく世代の一人としてさ、そういう日が早く来ればとなという風には、思うよね」

人びとの置かれている状況はちがうけれども、過去を肯定的に振り返れるようになり、ツナガリのなかで「共感」し笑い合えるようになる。それが齊藤さんにとっての「平和」だった。

震災前と震災後で被災地が、全く変わってしまったわけではない。

「同じ世界、同じタイムラインなんだ」

齊藤さんはそう話す。震災はインパクトの大きい出来事ではあったが、それはすべてを覆い隠すのではない。あくまでまちの歴史の一ページに過ぎないのだ。

どの地域にも、積みあがってきた伝統・時間があり、そのなかで人びとは連帯し、ツナガって生きている。固有に蓄積されてきたものを大切に掬い上げて、皆で愛しむことができる豊かさ。私たちがふと忘れてしまいがちなその営為のなかに、「平和」が見えてくるのではないだろうか。