「今の日本は平和かどうか」と尋ねた時、あなたなら一体どう答えるだろう。
そんな突拍子もないと思いながらもなんとなく、「まぁ、平和なんじゃない?」と、ぼんやりとした感覚を抱く人が多いのではないだろうか。
日々を生きている中で、「平和」を意識するのはどんなときだろう。考えてみると、たとえば散歩中に子どもたちが笑い合っている声を聞いた時だとか、おばあちゃんやおじいちゃんが立ち話をしているのを見た時だとか、野良猫が太陽を浴びて目を細めている時だとか、そういう自分の「外」のものを見て、「平和だなぁ」と呟くシーンが多いように思う。
「平和」は、自分が主体的構成員であるという自覚を持ちにくい言葉なんじゃないかと思う。「外側」にいる誰かや何かが作り上げている状態というような、そんな漫然とした曖昧な疎外感がある。
一方でその「穏やかさ」の反対、困難や苦悩や混乱といった状態にいる時、わたしたちは渦中の「当事者」として自分を置くことに苦労がないように思う。平和と非平和の状態の違いとは何だろうと考えると、たとえばそれはそこに「痛み」が発生しているかどうかの違いだろうか。もしかすると生き延びるために、人間は穏やかさよりも痛みを敏感に察知するようにできているのかもしれない。そうなのだとしたら、なんだか動物臭くていい感じだなぁと思う。
しかし本来は、個人の能動的平和の創出こそが平和の鍵であるような、そんな気もする。
わたしたちが人間として社会を構成するのならば、生物的生存本能以上の思考に眼差しを向ける必要があるのではないだろうか。
ふだんから物書きとして日本語に携わり、言葉の力を信じたいと考えているからこそ、今回わたしは辞書を片手に言葉の意味を引きながら、「平和」について考えていきたい。
「平和」に自分の効力は及ばない?
大辞林第四版によると、平和は以下のように定義されている。いくつかの辞書を引き比べてみても、大体似たような意味合いで掲載されている印象を受ける。
へいわ【平和】
1戦争もなく世の中が穏やかであること
2争いや心配事もなく穏やかであること
おそらく、冒頭の「今の日本は平和かどうか」という問いに対して「平和だ」と答えた人にとって、平和とは一番の意味をさすのだろう。
わたし自身、「平和」と言われて真っ先に想起するのは一番の「戦争のない世の中」のイメージだった。戦争のない時代に生まれ育った世代だからか、この意味で改めて平和を捉えるとき、わたしはどうしてもどこか他人事というか、「自分の効力の及ぶものではない話」という感覚があることに気づく。
遠い先祖たちが命をかけて「作り上げてきた」ものだと頭で理解はしていても、やはりどうしたって「最初から広がっていたフィールド」のように思え、自分が関与したり、自分の効力が影響する余地のないものであるという風に捉えてしまうのだ。
RPGなんかでゲームのスタート画面が動き出すときに、「フィールド自体を変化させる」なんていう発想にはなかなかならない。わたしにとっての「平和」というものも、それと似た状況なのかもしれない。
一方で、おそらく冒頭の問いかけで「非平和」と回答した人にとっての「平和」のイメージは、きっと二番の「自分の状態が穏やかであること」だったのだろう。
戦争はなくとも、さまざまな心配事がある。心中が穏やかではない。あるいは自分が身を置いている環境そのものが、穏やかなものではないという人もいるのかもしれない。
世の中と個人。もしも一番と二番が相反する状態になったとき、わたしたち人間はどちらの「平和」を優先するのだろうか。
「世の中」とは何か
ここで気になるのが、一番の平和「戦争もなく世の中が穏やかであること」がもつ主語である「世の中」というものだ。
こちらもせっかくなので手元にある辞書で引いてみる。
よ【世】
1人間が集まり生活の場としているところ。世間。また、そこに生活している人々。
2俗世間。凡俗の住む、わずらわしい現実社会。
3ある支配者が治めている期間。また、同一系統の者が政体を維持している期間。時代。
4人が生まれてから死ぬまでの期間。一生。
5仏教で説く、過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)など、ある人の生きている世界。
6寿命。生きていられる年齢。
7時節。時期。折。
8男女の仲。
9ある人が家長として統一している期間。
(大辞林 第四版より)
軽い気持ちで辞書をめくった結果、図らずも大量の「世」と出会ってしまった。わたしの想像していた以上の「世」が並んでいる。重いページを支えながら、なるほど、辞書というのはこういう楽しみもあるのだった、と思い出したりもしていた。
今回用いる「世」は、おそらく一番か二番の意味だろう。言葉の意味を分解していくという意味においては、二番よりも一番の方が言葉の粒子が小さいように感じる。独断と偏見ではあるけれど、誰しも独断と偏見のもとで生きているのだから、今回はこちらを採用して話を進めていこう。
よ【世】
1人間が集まり生活の場としているところ。世間。また、そこに生活している人々。
「そこに生活している人々」と書いてあるということは、「世」も結局は個人(の集合体)であるということだ。つまり、「平和」とは結局、「個人の穏やかな状態」を指す言葉であるとはいえないか。そして、もしも本当にそうなのであれば、今の日本は、果たして「平和」だといえるのだろうか。
へいわ【平和】
1戦争もなく世の中が穏やかであること
2争いや心配事もなく穏やかであること
平和の対義語は戦争なのか
ここからは一瞬だけ愚痴になるのだけれど、平和の対義語を調べるために、今回「反対語辞典」というものを買った。書店には置いていなかったので、オンラインで購入し、この記事の執筆作業も少し時間を置いて辞書の到着を待っていた。
数日後到着した辞書で嬉々として「平和」を調べる。「世」のような期待以上とは出会えるだろうか。ドキドキしながら「平和」を見つけると、その下には素っ気なく「戦争」とだけ書いてある。ジーザス。こんなことがあるのかよ、と思った。
果たして「平和」の対義語は「戦争」だろうか。そんなに単純な話でいいのだろうか。ついさっき「平和とは個人の穏やかな状態である」ということにたどり着いたのに、その反対は「戦争」だって? なんて浅はかな辞書なんだろう。3000円を返してほしいと心底思った。
仕方なしにネットで調べてみると、辞書と同じく戦争と答えが出てくるものもあれば、「平和の対義語は戦争ではない」とわざわざ見出しにつけて己の考えを説いている文章などもいくつか見られた。
結局何が正解かなんてわからない。Aという言葉の冒頭に「非」や「不」をつけて反対の意味を説明しようとするような辞書が世にはある。もう何も信じられない。それならばここでも独断と偏見で導き紐解いていこう。そもそもこれはそういう試みなのだ。
様々な意見があるとは思うけれど、個人的にはやはり「平和の対義語は戦争ではない」に一票を投じたい。
平和とは「個人の穏やかな状態である」のならば、その反対は「個人の混乱や荒々しい状態」といったところだろうか。
ある意味では「戦争」も対義語に分類される可能性は大いにあるけれど、主語である「個人」をすり替えるのは、ここでは相応しくないのではないかとわたしは感じる。
穏やかな状態も、混乱して荒々しい状態も、すべては個人の感情や感覚の中にあるべきだ。
せんそう【戦争】
1武力を用いて争うこと。特に、国家が自己の意志を貫徹するため他の国家との間で行う武力闘争。
2激しい競争や混乱。
(大辞林 第四版より)
平和は「誰かが作るもの」ではない
そもそもどうしてわたしは辞書を抱えて「平和」について理解しようと思ったのかといえば、「平和な国」である現代日本で、わたし自身の人生には「非平和な状態があった」という自覚があるからだった。
今、日本では年々児童虐待の数が増えている。正確に言えば、「通報や相談に至る虐待件数が」増えている。
「虐待」とは何なのかというものが、ここ数年で書籍やインターネットで多く見聞されるようになった。
だからこそ、これまで虐待ではなかったものも虐待としての意味をもち、そして顕在化するようになっている。ただ、これらは新たに浮かんできた課題なのではなく、「今までもずっとそこにあったもの」だ。「今も地球のどこかで飢えた子供たちが……」といった大規模な話ではなく、マンションの隣の部屋や三軒向こうのアパートの一室で、日々「非平和」は訪れている。それが日本だ。
わたし自身も、心理的虐待を受けて育った。家庭内暴力もあったし、あの頃は毎日が荒れに荒れていた。「穏やか」であることなんて一瞬たりともなかった。いつどこでどうやって、目に見えない地雷が爆発するのかといつも怯えて過ごしていた。
けれどあの頃だって、日本に戦争はなく、猫は日向でくつろぎ、子どもたちははしゃいで駆け回り、「外」を見れば穏やかさが広がっていた。
同時に違う「外」を見れば、わたしなんかよりよっぽど辛い現実や過酷な現状と闘う人たちがいた。だからわたしは、「わたしは平和な状態にいるのだ」と思っていた。確かに傷ついて、安穏を奪われて、まったく穏やかな状態ではない状態に追い込まれていたというのに。
「平和」の正体を紐解いてみれば、それは結局「自分の中」にしか無いのだということがわかる。誰もが積極的に、能動的に己の平和を創出し獲得していく意識を持つことでこそ、この国には真の「平和」が訪れる。そんな気がする。
個々人の能動的平和の連鎖が、社会の平和を、そしてやがては世界の平和を生み出していくのではないか。そんな単純な話にしてしまうのは、ものごとが複雑化している令和の時代にはあまりに安直だろうか。けれども実際、本当のことというのはいつだってすごくすごくシンプルなんじゃないかって、私はそんな風に思う。
平和はいつでも自分の内側にある。
自分次第で、能動的に平和を創出することはできる。
それをわかっているだけで、わたしたちはもう少し、今の自分の行動や選択を捉え直すことができるのかもしれない。平和は、「外側」の何かや誰かが作ってくれるものではないのだ。与えられるものではなく、自身の中に生み出すもの、自身の内側に常に在るものなのだ。
今回のコラムでいちいち辞書を引いて言葉の意味を調べたのも、「今までもずっとそこにあったもの」を紐解いて再認識し、ここに存在させていく行為だった。
わたしたちの中にある「平和」もまた、現状を認識し、再解釈し、非平和の混乱した状態を紐解いていくことで自分の内側に存在させていくものなのかもしれない。