「暮らす場所」をテーマに書いてきた「私の“平和”」についての連載、今回は第二弾。前回は、わたしの日頃の暮らし方 ── 暮らす街を探す旅についてお話しした。

テレワークが進み、以前よりも暮らす場所が自由になった今、わたしたちは“どこで”暮らしたいんだろう。わたし自身も未だ暮らす街を探し途中。自分が住む場所に求めるものを見つめ直すために今回は、これまでに暮らしてきた街を振り返りながら自分自身のルーツと向き合おうと思う。

転勤族の家庭で育ち、どこの土地にもアイデンティティのない、それでいてどこかしらには所属したい。そんなわがままなわたしの独り言をしたためながらお送りするこの連載。

みなさんの暮らしたい街、過ごしたい街などに思いを馳せながら読んでいただけたら嬉しいです。

鈴木詩乃
写真のライフスタイルメディア「Photoli」の編集者/ディレクター。多摩美術大学美術学部を中退後、デザイン専門学校在学中にライターとして活動を開始。日本と世界の文房具屋さんを巡りながら文章を書いて生きている。1995年生まれ。

「出身はどちらですか?」と聞かれることが、とても苦手だ。なぜなら「出身です」と胸を張って言える場所がわたしにはないのだから。

転勤族の家庭に生まれたわたしは、幼い頃から関西〜中部を中心に暮らす場所を転々としてきた。生まれた場所、つまり病院こそ、母の実家のある東京都であったものの、それはあくまで出産のために選ばれた場所であり、俗に言う「出身地」ではない。

産後、わたしが生活した街はというと、愛知県の名古屋市に始まり、3歳頃までは三重県の鈴鹿市、津市、それから4歳の頃には兵庫県の芦屋市へ、そして5歳頃からは再び名古屋市に戻り、そして中学生の頃に東京都……と、実に取り留めがない。

「人よりも多くの土地に住めて、まるでスタンプラリーをコツコツ溜めているようだ、ラッキー♪」だなんて思っていたのは小学生の頃までの話。出身地を聞かれる機会が増えるにつれて、わたしは自分の「生まれ育った街」がないことにひどく落胆した。

ホームシックを覚えて「帰省したい」と思うこともできず、暮らしたいと願う街もなく、Uターンなどとも無縁の人生は、なんだか味気ないもののように覚えた。

特に、大学生になると、上京を経験した同級生たちの姿を横目に見ながら、上京ストーリーのない自分の青春をちょっぴり恨んだりもした。

「出身はどちらですか?」と聞かれたとき、わたしは状況に応じて「東京です」とか「名古屋です」とか「まあ、中部あたりです」だとか、調子良いように使い分けをしている。

明確な出身地を持ち得ていないからでもあるが、なによりわたしが住んできた街のどれもが好きだからでもある。

ひとつの土地を「出身地」として語るのではなく、自分自身を作ってきてくれたすべての土地を出身地と答えたい。そんな欲があるのだろう。

ところで、幼い頃の記憶の中のそれぞれの土地のイメージは、こんな風だ(あくまで小さな子どもの目線から見た、覚えている限りのものです。事実とは異なるかもしれない)。

・愛知県(名古屋)=名古屋人である誇りを強く持っていて、他の都市に出ようと考える人が少ない。道が広くて車通りが多い、とんでもなく。愛と人情のある人ばかりだが、名古屋弁という方言の特性上とても気性が荒いと思われがち。あとは派手なものも好き。

・三重県=周囲には比較的何もなく、とても落ち着いた空気が漂う。(今はなき)SATYが家族での遊び場。賃貸マンションがとにかく、とにかく広い。その上、(後から知った話だが、)月6万円で3LDKの部屋が借りられることも当時では珍しくなかったそう。

・兵庫県=駅から徒歩で行けるような場所でも、歩いていると途端に緑が溢れたりする。どこからでも六甲山が見えるのでなんだか守られているような気持ちに。窮屈感はないものの、とても広いというわけでもなく、ちょうど良い大きさ。

・東京都=ないものを探すほうが難しい街。大都会で多くの地域から人が集まる分、土地そのものには強いアイデンティティがないように感じて、とても自由。実は23区の中に路面電車が2本走っていて、哀愁漂う雰囲気もある。

実はこのエッセイを書くにあたり、昔住んでいた兵庫県の芦屋市を訪れた。昔も今も変わらず静かで品のある雰囲気を感じ取り、一度でもこの街で暮らせたことはしあわせだったと心の底から思った。

また、なにかと理由をつけて訪れる愛知県の名古屋市は、東京に次いで暮らした時間が長い街だ。ガヤガヤとしていて、華やかなものを好む印象は当時からなんら変わらないが、その中に生まれる人の優しさには、大きくなった今のほうがより繊細に気づくようにもなった気がする。

住んだ長さは違えど、どの街もたしかにわたしを形作ってくれている大切な場所で、これから先もその事実はきっと変わらないのだろう。

ちなみに、転勤族というと比較的大きくなるまで転勤を繰り返していたイメージを連想されることもあるが、わたしの場合、両親の配慮もあり中学への進学を機に家族とともに上京。以来、12年以上東京での暮らしを続けている。

言い方を変えてしまえば、東京で暮らすことは、もう違和感のない日常になった。

転勤族の家庭に生まれたことでわたしは「自分の暮らす場所は、両親の暮らす場所であること」そして「暮らすとは、それを受け入れること」を無意識のうちに覚えていた。

3年前、社会人になってすぐにフリーランスという働き方を選んだわたしには、自分自身を暮らす場所を変えるきっかけなんていくらでもあった。それでも、その選択をせず東京に住み続けたのには2つの理由がある。

まずひとつは、悲しいかな、やっぱり仕事のため。この春からの世の中で仕事のあり方は大きく変わっているとは思うものの、20代前半でなんの実績も経歴も持たないフリーランスが「生きる」ためには、仕事の集まる場所へ身を寄せるのが手っ取り早かった。

企業の集まる都会にいることは、仕事を掴むためのアドバンテージになる。そう信じて疑わなかったし、おそらくそのチョイスは間違っていなかったろうとも思う(だからこそ、東京以外の場所で働くフリーランスの同世代のことを心から尊敬している……)。

ただある意味それは、わたしにとっては一種の諦めのようなものでもあった。東京以外の場所で暮らしたい、そう思うからこそ旅をそばに置きながら暮らしていたのだろうから。

東京以外の場所で暮らしたければ、いっそ中部でも関西でも興味のある街で暮らしたら良い。でもそれは叶わなかった。東京という街から離れることは、とてもとても怖いことだった。

そして、もうひとつ。「東京」という馴染みある街は、毎月のように「暮らす街を探す旅」を続ける上でわたしをニュートラルにしてくれる場所だったから。

たったの12年間、されど12年間。転勤族の家庭に生まれ育つと、3年間同じ土地で暮らすことすら珍しく、5年間も住めば、もはやそこは都となる。

だからこそ、この12年間同じ土地に暮らし続けたわたしには、なんだかんだ言いながらも東京の街が長い時間をかけて馴染み込んでいた。

そういう街から旅先へ赴くと、どこかニュートラルなわたしから「いつもとほんの違うわたし」へと生まれ変わるような感覚を覚える。

はじめましての土地を訪れたら、はじめましての空気が胸いっぱいに広がって心のなかに独特の緊張感と期待を生む。久しぶりの土地を訪れたら、旧友とハグしたときのような温かい眼差しをその土地々々はもたらしてくれる。

わたしの旅の目的がいつだって“暮らす街を探すこと”である以上、旅する中でだんだんと自分が土地に馴染んでいく感覚を知るためには旅に出かける前の自分は極力ストレスのないニュートラルな状態でいたいと思うのだ。

そのための準備の場所として、東京は今のわたしにうってつけだと感じる。その上、東京にいれば、いつだってどこだって気軽に行ける。電車を乗っていけば利用できる空港が2つはあるし、新幹線や在来線も縦横無尽に走っているのだから。

東京を拠点に据えることで、少なくとも今はいつものわたしでいられるし、旅先の空気を敏感に吸い取り、自分の中に取り込める。

暮らす旅を続ける上で、東京以上にぴったりの街はないはず 。そんな思いが、わたしを長い間、東京の土地を選ばせているかのように感じるのだった。

東京は便利で、なんでもあって、交通の便も良くて、知り合いもたくさんいて、カフェも本屋さんも居酒屋さんもたくさんある。

暮らす上で不便なんてないはずなのに、どうしてか心は「東京以外にも暮らせる街はあるはず」それどころか「暮らしたい街はもっと他の場所にあるはず」そう言って落ち着いてはくれない。

では、わたしにとって、暮らしたい街とはなんなのか?

それは、どんなところにある、どんな街なのか?

その答えを探すために、旅をして、思考を巡らせる日々を続けている。