72年前の8月広島で起きた、大きすぎる衝撃とともに語られる「あの日」。
でも、被害にあった人々の「その後」に目が向けられることはあまりありません。
実は今と変わらない「日常」を、有名な戦争写真のモデルになったおばあさんの語りとともに描く連載の第13回をお送りします。今回は、河内さんの友達である”酒屋のみっちゃん”のお話し。
※前回の話はコチラ→【連載⑫】戦争の記憶図書館―かぼちゃ泥棒とおばあさん
※最初から読みたい方はコチラ→ 【連載①】戦争の記憶図書館-プロローグ
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【登場人物】
私:しの
河内:河内光子さん
恵:しのの祖母
坂本:広島ピースボランティアさん
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酒屋のみっちゃん
河内さんの近所の酒屋さんに、みっちゃんという友達がいました。河内さんの名前も光子で、二人とも近所ではみっちゃんと呼ばれるので区別するために、友達は”酒屋のみっちゃん”。
被爆直後、河内さんは頭に大ケガを負って泣いている酒屋のみっちゃんと出会います。
「それがね、みっちゃんが頭を切って血が噴きよる。頭に巻いていたハチマキも真っ赤で水槽で洗いました。泣くから。
「泣きんさんな、泣いたら血が出るよ」
って脅して。
一生懸命洗うたら真っ赤に流れとった血がだんだん白うなって
今じゃ!思うて
「手ぬぐいある?」
いうたら
「ない!」
いうけえ、私の手ぬぐいを出して縛ったったんです。
今思うたら下手な縛り方じゃったとおもいますがね
キュッキュと布を結ぶように動く河内さんの手。
「その後おじいちゃん(酒屋のみっちゃんの祖父)が傷を見て「きれいな!」ってたまげて(驚いて)いうんです。
「友達がめちゃくちゃに洗ってくれたんじゃ」
酒屋のみっちゃんが河内さんを見て言いました。
それが良かったんでしょうね。と河内さんは目を細めました。
「その時の水は汚かったでしょう」
ピースボランティアの坂本さんが持参した資料の写真と河内さんを見比べながら質問します。
「それが、原爆投下は月曜日で、日曜日は何が何でも水を替えるんです。
そういう決まりがあったんですよ。じゃからガラガラっと開けてみると
(おっこりゃきれいな!ボウフラがおらん)
と思って。それで洗ったんです。」
月月火水木金金という当時の流行歌があったほど、全ての国民の行動はお国のためと制度が敷かれ、当時は休みというものがありませんでした。しかし、曜日によって少し様相が違っているようです。コンクリートで囲った浴槽のような防火水槽は、当時空襲に備えて街のあちこちの店や家の軒先に置いてありました。月曜日、きっと水を替えた直後のこの日でなければあの暑い8月の広島のこと、すぐに蚊の幼虫のボウフラが湧いて衛生的に良くなかったでしょう。また、月曜日は市内が市で賑わう日。そのせいで被害が拡大したとも聞きました。
「みっちゃんが後になって言うんですよ。
「あんたひどかったよ? あんときはうちの首を絞めた」
って。
その酒屋のみっちゃんたちの家族が、一度身を寄せていた深江から酒屋を始めるためにまた広島に帰って来て、一家は落ちている木切れや鉄などを寄せ集めて作ったバラック小屋に住み始めました。当時はどの人も、市内にとどまる人はこうしてバラックを作って暑い日差しや雨を凌ぎました。風は…どうでしょうか。日がたつにつれ、まだ死体も多く残る焼け跡の中にポツリポツリとこうした粗末な小屋が増えていくのでした。
河内さんの母親は黒焦げのまましばらく亡くなった場所にそのまま寝かされていたようです。真っ黒焦げになり手も足もない、首と胴体だけの塊。
酒屋のみっちゃんは言いました。
「おばさんの死体を誰も始末せんけ、そこに黒い木切れが放り投げてあるようなかった。」
「あれは坂本のおばさんじゃがねえ」
その真っ黒になった河内さんの母親を見ると近所の生き残った人は、生前の面影を見て手を合わせて通り過ぎて行きました。
「誰も始末をようせんけえ、雨が降るとリンが燃えるん。」
火の玉と呼ばれる現象は、人のリンが燃えるのが原因の大半だといわれています。雨が降ると体内のリンが燃え、青色い炎がすっと上がり、ふわりと広がってすーっと降ります。原爆投下直後、死体のまた片付け切らないうちは広島市内のあちこちで青白い火の玉が上がっていました。
それを指して
「あそこに死体があるけ踏みんさんな」
と、歩く道の標べを見ていたとか。
酒屋のみっちゃんは、悪びれもせず河内さんに話していました。
「でも、それがおばさんじゃ思うと全然恐ろしくなかったって。
夜になるとホワアって。
「あら、おばちゃんが出てきちゃった」
って。誰も怖がらんかったって。」
河内さんは、そこまで話してお茶を口に運びました。
「その酒屋の一家もね、みんなガンで死にました。」
→続く【第14回】71年間の傷