暮らす街を自分自身で選べることこそを平和と捉え、心安らぐ場所を探す「私の“平和”」の連載。第一弾では、わたしの日々の暮らし方である“暮らす街を探す旅”について、第二弾では“東京という土地で暮らす理由”をお届けした。

今回は、連載の締めくくりとして、自分自身が今思う暮らす場所へのアンサーを書いてみる。東京に暮らしながらふらりと旅を続ける中でだんだんと見えてきた、平和に暮らせる街。現時点でわたしが思う答えを、この場にそっと置かせてもらう。

この記事を読んでくださるみなさんの「平和な暮らし」について考えるきっかけになれば、と願いながら。

鈴木詩乃
写真のライフスタイルメディア「Photoli」の編集者/ディレクター。多摩美術大学美術学部を中退後、デザイン専門学校在学中にライターとして活動を開始。日本と世界の文房具屋さんを巡りながら文章を書いて生きている。1995年生まれ。

「なんだかんだと言いながら、詩乃は東京を選ぶような気がするな」と、いつだか目の前でお酒を流し込む友人が、わたしの“暮らす街探し話”をひとしきり聞いた後、独り言のように語っていたことがある。

その言葉を聞いたとき、そうなのかもしれないと妙に納得する自分と、そんなことはないだろうなと違和感を抱く自分、両方のわたしが脳内にふわりと浮かんでは消えた。

「どうだろうね」とお茶を濁すように答えるわたしの表情は、きっと冴えないものだったろうと思う。

「暮らす街を探して旅をしている」なんて、随分と格好の良いフレーズにも聞こえるけれど、実際のところは心の定まらない放浪者のようなものだ。根を張る場所が決まれば良いのに、と思うことも少なくない。

旅を続けながら東京に拠点を置いて、早くも3年が経過する。最近は東京から別の街へと、拠点を思い切って変えようと思うことが増えた。

理由はシンプルで、本当に東京が暮らし心地の良い街なのか否かを始め、他の街に長く住むことでしかわからない「暮らす」への価値観があるような気がしたからだ。

たしかに、これまでの生活を長く共にした東京は、わたしがニュートラルになれる特別な空間だ。それなりに寛容で、適度に情もなくて、ちょうど良い街だと思う。

でも、それもこれも東京以外を知ること、見つめること、吸い込むことでもっともっと深く知れるように感じるのだ。

そんなわけで、えいやと東京を出てしまうことに決めた。これまで続けてきた暮らす街を探す旅に、セーブポイントを置くために。

候補地はこれまでに暮らしてきた愛知だったり、兵庫だったり、その他よく訪れている馴染みの街である北海道、新潟、大阪、京都、沖縄だったり。北から南まで、選択肢は実に幅広い。

どの土地も暮らす想像を膨らませてはワクワクするような、独特な不安のような、どっちつかずの感情を覚える。なるべく暮らすようにと思いながら旅をしてはいるものの、長期的に暮らすとなったときの相性が本当に良いのかどうか、やっぱり暮らしてみないとわからない要素も大きいからだ。

とはいえ、頭の中で妄想大会だけ繰り広げていても思考は一向に深まらない。そこで、もう少し理性的な観点で暮らす街に必要なものを考えてみた。地価、交通網、周辺環境などをポイントとして、一つずつ整理してみる。

<地価の安さ>

基本的にカフェで仕事したり、喫茶店・本屋さん・文房具屋さん・雑貨屋さん・服屋さんなどに遊びに出かけるのが好きなので、繁華街に近い街で暮らしたい。落ち着いた静かな場所ではなく、比較的元気いっぱいな街で、地価が安いととても嬉しい。

ただし、実際に物件を探してみるとわかるが、一度でも東京での一人暮らしを経験すると、どの街でもとにかく物件が安く感じる。

東京で満足いく物件を探すには8万円/月は下らないのに、東京を出てしまえば6万円、7万円で叶ってしまう……というよくある話を目の当たりにし、改めて衝撃を受けた。

<交通の利便性>

車の免許を持っていないので、日常生活は基本電車やバスでの移動になる。そのため、公共交通機関で過ごしやすい街であることの優先度はとても高い。これを優先すると、実は関西地方(とくに大阪や京都)あたりがフィットすると気がつく。

また、実家があり友人も多い東京に帰りやすい距離感であることも大切だし、その他の地域や国への移動を考えて、空港へも電車で行ける場所だとなお嬉しい。この点を検討したタイミングで、関西はなおさら良い選択肢なのではと思うように。

<近くに知り合いがいるかどうか>

人にはよるかもしれないが、わたしの場合、そばに安心して頼れる人がいるかどうかは街を選ぶ上での大きなポイントだなと感じる。

長く暮らしたことはないものの、北海道や沖縄には知り合いや友人などが多いので暮らすと考えた上での安心感は大きい。

一方、過去に暮らしたことはあれど、幼い頃に離れてしまった兵庫や愛知などには実は知り合いと呼べる人があまりいない。そういった地での生活は、孤独がスパイスになってくれる可能性もあるものの、正直不安が大きい。

今のわたしは、自分自身がそう願いさえすれば、いつだってどこだって暮らすことができる。でも、そんな「自由」は時に窮屈で、どことなく焦燥感をもたらす。

── わたしが本当に暮らしたい街はどこにあるの?

その問いに明確な答えは出ていない。たったの数ヶ月、数年で見つかるなんて安易なものではないのかもしれないけれど。

ただ、まるで宣言のようにもなってしまうが、2021年が明けた頃には東京を離れて京都で暮らしてみようと思い、この記事をしたためる傍らで準備を進めている。

「結局、どうして京都なのか?」と聞かれると少しだけ濁したくなる気持ちもあるが、率直な感覚を答えるならば、ピンときたから、だ。

東京と比較すると地価も安く、交通の便も良く、京都を始めとした関西には知り合いも多い。そう御託を並べることもできるのだが、一番はなんだかんだで「馴染んだから」なのだと感じるのだ。

というのも、この連載の執筆中、具体的には秋の音が鳴り始めた頃、わたしは8日間ほど京都で暮らす時間を設けてきた。

朝起きて、パン屋さんでクロワッサンを買って宿泊先で食べて、カフェで仕事をして、本屋さんで文庫本を買って、ウィンドウショッピングをして好みの定食屋さんを渡り、友人と遊ぶ……という、普通の生活を送るために。

その一週間とちょっとの時間で、わたしは暮らす街としての京都が好きになった。

徒歩で歩ききれるコンパクトな町並み、ふうと一息つきたいときにそばで寄り添ってくれる鴨川、盆地ならではの遠くを眺めて見える山間、しとやかで重心が安定した人々の様子。

なにより、京都の街を歩く自分自身に強烈な違和感を抱かなかったこと。要するに、馴染みやすいと感じたのだ。

京都がこれから一生住む場所になるのかどうかは全くわからない。「実際に住んでみたら合わなかった」なんて言って、3ヶ月と経たずに東京にとんぼ返りするかもしれないし、今度は京都を拠点にまた新しく旅を始めるかもしれない。

その結論はなんだっていいし、その時々で自分に合った答えを一つずつ拾い集めて自分だけの平和を見つけたらいいとも思う。

暮らしたいと願う街があること、そして暮らしたいと思う街に暮らせること。それは紛れもなくしあわせで、平和で、生きる理由になると思う。骨をうずめたいと思えるそんな土地がいつか目の前に現れるまで、わたしはこれからも「暮らす街」を探しながら生き続けるのだろう。

 

「どこで暮らしてもいいんだよ」と言われたら、みなさんは暮らしを営む場所としてどこを選択するだろうか。今と変わらぬ土地だろうか、それとも全く異なる異国の地だろうか、昔訪れた記憶の中の街だろうか。

みなさんの暮らしを見つめるきっかけの一つに、この記事が選ばれていたら嬉しいなと思いながら、連載を締めようと思います。全3回、お付き合いありがとうございました。これからも心地よい暮らしを。